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スカッシュコーチGのブログ

スカッシュコーチの悲哀を綴ったサクセスストーリー
になるはずが、いつのまにやら禅の道に迷い込み・・・

失恋、突然のリストラ、信じていた人から裏切られる・・・人生には、時として辛いことや悲しいこと、または理不尽に思える出来事に出会うことがあります。そんなとき「何で私ばかりが、こんな目に会わなくてはならないんだ。いつも私はツイない。」と落ち込む人もいるでしょう。

また、「あいつのせいでこうなったんだ」と誰かに対して、強い恨みを抱く人や、自分の責任だと思いこみ罪悪感で心を痛める人もいるでしょう。あるいは、あまりにも心が痛くて「どうでもいいや!」と無関心を装うしか自分を守る道が見つからない人もいるでしょう。

でも、そんなふうに消極的に受け止めていても、何も進歩がありません。悲しもうが、苦しもうが、悩もうが、その出来事のネガティブな面ばかりを見ていては、ただ心のエネルギーが消耗していくばかりです。

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ならば、いっそこんな風に意識を切り替えてみてはいかがでしょう。どんなに絶望的な出来事だとしても、その経験から何が学べるのか、自分の成長に役立つことは何かということを探してみるのです。

たとえば失恋したとしても、人の心の痛みを知ることで、他の人に優しく接するようになったり、もっと自分と波長の合う人を見つけるチャンスになることでしょう。

リストラは、決められた道を外れて、また違った仕事で本当に自分の可能性を試す道が、開けたことになります。裏切りだって、今の自分の人間関係や生きる姿勢を問い直し、もっと良い環境を築いていくことに目を向ける機会になるのではないでしょうか。

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見方によっては、どんな出来事だって自分の人生にプラスになるということなのです。それは、きっと今の自分にとって必要だからこそ、出会うことになったのです。

ひょっとしたら、一見マイナスに見える出来事は、自分自身でいることの大切さに気づかせてくれるためのプレゼントなのかも知れません。

ねっ、時には苦しいことに出会わないと、今の自分でいられることが、どんなに幸せなことなのかを忘れてしまうでしょ。



妙心寺坐禅会の時に、老師のお話に「因をおさめて果を結ぶ」という言葉のさとしがありました。

因とは原因の因、果とは結果の果、因があって果がある。そこに、縁がかかわって因縁となり、果を結ぶ。

因果とは、正しくは因・縁・果で表されます。

因なしに生じる結果はなく、因だけでも結果は現れない。因と縁が合わさって、結果を生じると教えているのです。

ここで、お米を一つの結果とします、お米の因は何でしょう?それがないとお米ができない、というもの、それはモミ種です。

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モミ種がなくては、絶対にお米はできません。しかし、モミ種だけでお米はできるでしょうか?モミ種を机の上に蒔いても、何年たってもお米にはなりません。

土や水、陽の光などがあって初めて、お米ができるのです。この場合、モミ種が「因」で、土や水や陽光が「縁」となって、お米という「果」が出来たのです。

同じ品種のお米でも、「縁」である田んぼや水、日照時間などが変われば、味や質が変わってきます。つまり因が同じでも、縁のかかわり方で結果も変わるということなのです。

人生も同じように「生まれ、人とかかわり、成長する。」 成長した形がどうなるか、それは人やものとのかかわりに、どのように自分が接したか、それにより、人生の果は変わっていくのです。

がしかし、たとえ人生の一時に結ばれた果であったとしても、その果は、やがて次の「因」になるのです。 そう、そこからまた「新たな縁」につながり、「新たな果」が生じるのです。



ICUシンドロームとは・・・ICU(集中治療室)に収容された患者は、「集中治療室に入れられているということは、死に直面しているということ?」という極限の不安にさらされ、外界とも遮断され、時間感覚も失ったりするため、精神に異常をきたす場合がある。この時に起こる、幻覚、幻聴、錯乱等の症状を「ICUシンドローム(症候群)」と呼ぶ。

母親にしてみれば、生まれて初めての入院そして手術の経験を、たった2ヶ月足らずの中でしたのである。何がなんだかわからないまま、月日がたち、麻酔から覚めたら、そこは集中治療室だったのである。

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その集中治療室の様子は、ちょうど江口洋介の「救急病棟24時」そのままであった。ベッドには瀕死状態の患者、ひっきりなしに鳴る治療機器のアラーム、その間を駆け回る医師とナース。戦場のような病室で、大きな心臓手術を終えたばかりの母親が目を覚ませば・・・精神を患うのは無理からぬこと、と思うのである。

医師からは、「一度ぐっすり眠れば直ります。」といわれたものの、はじめて見る母親の錯乱状態に、身内にしてみれば、危機感すら覚えるほどだったのである。

術後、3日目の朝、母親の顔つきが、いつもの顔に戻っていた。さすがに数日間寝られずにいたのが、睡魔からであろう、はじめて熟睡したようである。それからというもの、私は母親が正気に戻ったことを確かめるかのように、それまでの発言や、行動を並べ立てて説明すると、「何を言ったかは覚えている。でも、今になってみれば、なんでそんなことを言ったのかわからない。」ということだった。

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医師やナースからも「もう大丈夫ですよ。」と言われ、家族一同、ひと安心したのである。そして、順調に回復した母親は心臓のリハビリ施設がある北里研究所病院に、転院することができるまでに回復した。このときの母親は「ああ、あそこの病院のご飯は美味しいんだよね。」と一言、すでに食欲も回復していた。

今回、いろいろと心臓について調べてみた。調べるほどに、自己治癒能力というか、再生能力というか、まさに人体の中で最も重要な心臓の凄さに改めて驚かされたのである。

80歳目前の母親であるが、今回の手術は、人生観すら変えるであろう出来事であり、残された人生をいかに過ごすか、息子として、穏やかな日々を過ごしてほしいと、願ってやまないのであった。
7月の終わり、母親が心臓弁膜症の手術をした。 早いもので、あれから1ヶ月半余り・・・がたった。

思えば、5月に母親から「大学病院で心臓の検査をすることになった」と電話があり、「一緒に行って欲しい」と、珍しく弱音をはく母親だった。その後の経過を思えば無理もないことだった・・・

5月下旬、東京は信濃町の慶応義塾大学病院、心臓血管科、四津先生の診察室。(実は、この先生、テレビに何回も出ている日本のスーパードクターの一人だった・・・)

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「お母さんの心臓はかなり心不全が進んでいて重症です。僧帽弁の置換手術が必要です。」と検査結果のデータをにらみながら、先生からキッパリ言われた。一番ショックだったのは、やはり母親で、もたれかかっていた脇机に肩をガクッと落した。すかさず看護婦さんが「大丈夫ですか?」と声をかけた・・・すでに母親の頭の中は、ショックで真っ白だったことは後で知った。

息子として、決断せざるをえないと、手術を決意、先生に伝えた・・・それから1ヶ月後。こんどは心臓カテーテル検査で、思ってもみなかった事実が・・・「今のままでは、手術は危険です。」北里研究所病院の担当医にそう通告された。またしても、母親は、愕然となり、頭の中は、完全に真っ白に・・・陥っていた。

それから、即刻入院となり、投薬と安静を保つことで、手術が出来るまで、体調を回復させることとなった。

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そして、7月21日、僧帽弁を人口弁に換える、三尖弁の弛みを縛る、心房細動を止める、という1度に3つの手術を行う日がきたのである。朝9時、手術開始、午後4時、手術終了。手術は成功したのである。

翌、22日、慶応の看護婦さんから電話が入った、「お母さまが、ICUシンドロームにかかり、精神状態が不安定になっています。ご家族の方は、なるべく早く病院にお越しください。」と・・・何が起こったかもわからず、病院に急行した。

ICU室に入った私に、母親が最初に発した言葉、「私は、死ぬんだ、手術なんかしなくていい、葬儀屋を呼んでくれ・・・」 何を言っているのだろう、どうしたっていうんだ・・・そう、これがICUシンドロームによる錯乱症状の始まりだった ・・・ to be continued



「正しく生きる」という信念を持つことは素晴らしいことです。といっても、その思いが強すぎて、無意識に他の人にも「正しくあるべきだ」ということを強要しているとしたらどうでしょう。

まわりの人たちの「正しくない」部分が目について、欲求不満を持ったり、余計なトラブルを抱え込んだりすることがあるかも知れません。他の人たちも、それぞれの信念や価値観を持っているはずです。ある人にとっての「正しい」ことが、別の人にとっては「正しくない」という可能性だってあるのです。

たとえば、自分の持っている信念をカタチにしてみると、それは丸だったとします。同じ丸い形の信念や価値観を持っている人に出会うと、多くの部分が自分の形と重なり合いますので、すぐに受け容れることができるでしょう。

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ところが、四角い信念や三角形の価値観を持っている人の場合は、少し違ってきます。きっと、「ここが足りない」「こんなにはみ出しているじゃないか」などと思えてきて、相手を受け容れるのが難しくなるでしょう。

自分の形に、強くこだわればこだわるほど、相手の形の違っているところを許し難く感じるはずです。こんな形の奴はダメだ、と相手を避けるようになることもあるでしょう。

中には、自分の形は本当は四角なのに、丸でなければならないと思い込んでいて、丸い形からはみ出してしまう自分のことを受け容れられず、いつも自分を責めている人もいるかも知れません。これでは、生きていくことが、とても窮屈になってしまいますね。

もちろん、あくまでも自分の形にこだわり、それに合う人たちだけと交際するというのも、ひとつの生き方です。でも、覚えておいてください、研究によると、心の健康に一番大きな影響を与えているのは、人間関係なのです。

心が健康で豊かな人は、表面的なつきあいしかしなかったり、ごく限られた交友関係しか持たない人ではなく、いろいろな人たちとも楽しく交流できる人だといことです。彼らは、多くの人たちの形、つまり信念や価値観を受け容れることができるのです。

この世界には、いろいろな形を持つ人たちがいますが、その違いをその人らしさ、ユニークなものだと受け取り、そこからたくさんのことを学んでいくことを知っている人たちなのです。

そんな人たちだって、その人らしい形を持っているはずです。丸の人もいるでしょうし、三角形の人、四角、菱形、あるいは楕円形や台形の人だっているでしょう。

どうして彼らは、多くの人たちを、受け容れることができるのでしょう。それは、その人たちの持っている形が、とても大きいからなのです。大きな形なら、相手の形が全然違っていたとしても、そのすべてを包み込むことができます。

他人のことをおおらかに見ることができますし、少々のズレは、その人なりの個性だと受け容れられるのです。そんな大きな形を持っていれば、きっと豊かな人間関係を築くことができるでしょうし、生きることも楽しくなってくるでしょう。

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そのためには、自分と全くタイプの違う人に対しても、傍観者ではなく、その人の立場になったつもりで考えてみたり、ともに苦しんだり、ともに楽しんだりするようにしてみるのもいいかも知れません。

自分に対しても 自分自身のユニークさを楽しんでみましょう。そうすると、いろいろな人のユニークさも楽しむことができるようになってくるのです。

そして、うれしいこと、悲しいこと、やりたいこと、やりたくないこと、今、感じていることを、小さな形ではなく、大きな形を持ったつもりで、受け容れてみましょう。それが、いちばん大切なことなのです。そして、それが生きるということなのです。


京都妙心寺で、毎週土日に泊り込みで行われる「大衆禅堂」という坐禅会が行われています。わたくし、それにチャレンジ?して参りました。この感想を一言でいうとなれば「きつかった~(泣)」です。

この大衆禅堂というものは、和尚さん曰く「一般の人に修行僧が行う日常生活の一端を体験してもらえるのは、ここだけです」と・・・また20余年の永きにわたり続いているのも、ここだけだそうです。では、その修行?の様子を一部ご紹介しますね。

夕方6時から、いきなり坐禅に入るのですが、その場所が本格的な禅堂なのです。床は黒い石畳、座すところは、修行僧と同じ、一人畳一畳分の場所で座ります。ここで豆知識ですが、この禅堂の中の畳一畳分の居場所を「単」といいます。修行僧は寝起きはもちろん、日常の生活の大部分をこの単の上でします。実は「単位」という言葉はこの「単」が語源なんだそうです。

その「単」は石畳から60cmほどの高さの座敷状になっています。堂内の歩き方、単への上がり下がりの作法を教わり、坐禅に入っていきます。しかし、この禅堂内は、空調や扇風機なんぞはありません。ましてや、盆地の京都の暑さは尋常ではありませんので、おのずと、額から首筋から、汗が流れ落ちます・・・(暑)

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1回目の坐禅が終わると、老師(悟りをひらいた僧)から、禅に関するお話があります。大変穏やかに、ユーモアも少し交えて話されるのですが、内容は深く、難しいものでした(?)

私が、なるほどと思った言葉は、「因を収めて、果を結ぶ」というくだりです。「世の中の物事は、因(原因)があり、それが縁(つながり)があって、果(結果)に結する」というものです。大変気にいりました。これは、わたしの信条のひとつ「なるようになる」に通ずるものがあると感慨深いものがありました(喜)

その後、また坐禅を行い、就寝です・・・がしかし、京都は夏暑く、冬寒い、当たり前ですが、その暑さは半端ではありません(汗) 翌朝5時起床までに、はたしてどれほど寝られることか・・・額に汗して、寝返りうちながら・・・ちなみにお風呂はなしでした(また泣)・・・ウトウトしたかと思っているうちに・・・起床の鐘が「リン♪」と(早)

起きて布団たたんで身支度して、朝のお勤めのために、全員で、妙心寺の法堂(はっとう)に向かいます。和尚さんを先頭に鐘をならしながら、一列行脚。これがまた速い速い(驚) この朝のお勤めをする法堂は、妙心寺を紹介する時に必ず用いられる「八方にらみの雲龍」が天井に描かれている、お堂です。今回、最も期待していたのは、実はこの法堂の雲龍の真下で坐することなのです。それが実現したのです(感動)

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総勢30名余りが、一列10名ずつで、コの字型に座し、いくつかの読経のあと、坐禅を始めます。この時は、早朝5時半にもかかわらず、すぐに額から汗がしたたり、瞼の上を流れ、頬をつたい、顎の先から落下します。半眼にしたまつげから汗が流れ出るのが見てとれます(暑)

数息観(坐禅の呼吸法)を繰り返すうちに、汗は流れ落ちるままにして、やがて、黒の石畳に朝日がさしこみ始め、半眼の目に鈍い光が映りこんできます。とほほ同時に、妙心寺のお坊さん達の朝の読経と鐘の音が聞こえてきて、広大な境内に響き渡ります。ふと、自分が居るところは、まさに700年つづく、禅の世界なのだと、鎮めた心が感動で少し揺らぎました(歓喜)

束の間の法堂での貴重な体験のあとは、一汁一菜の朝粥です。これがまた、初めての人にとっては、その作法の数の多さに、驚嘆すること必至です(泣) 食事前の読経から始まり、お椀の持ち方、箸の上げ下げ、お粥の量の合図の仕方、一切れのたくわんを使った食器の洗い方等々、一度聞いても、頭に入りきらないほど細かい所作が多いのです。

一番驚いたのは、食べる速さです。あらかじめ和尚さんから「皆さん、食事は速いですよ」と言われてはいたものの・・・諸先輩方についていこうとすると、お粥が喉を通らない!?ほど、かきこまなければならないというスピードなのです!といったらわかってもらえるでしょうか?

一晩の修行を終え、「はよ帰って、風呂はいって、一杯飲んで、寝るとしょ」とかなんとか、俗世間のことを考えながら、帰路につくころ、京都の気温は37度でした。。。酷残暑、お見舞い申し上げ候
野球やテニスなどのスポーツ、あるいは将棋や囲碁などにしても、「勝つ」ためには、バランスが必要です。つまり、大きな流れを把握することと、細部に注意を払うこと。この二つができているときには、良い結果が得られることが多いのです。

細かいところにばかり囚われていると、大局を見失ってしまいますし、全体の流れだけを見ていると、小さな部分が疎かになります。うまくいかなかったときに振り返ってみると、必ずどこかでバランスが崩れていることに気づくのではないでしょうか。

これは、スポーツやゲームばかりではなくて、仕事や人間関係にしてもそうです。バランスが取れいるときには、何をやってもうまくいく感じがします。ところがバランスが乱れていると、いくらがんばっても、空回りするばかりで、どうもうまくいきません。

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もっというと、人生でも全く同じことがいえます。ちゃんと見るところを見て、心を本当に自分の望む方向へ定め、希望を持って前に進んでいく人は、必ず「良い結果」に結びつきます。たとえ逆境に遭ったとしても、「勝つ」ことに関して深い尺度を持っているので、表面的な事柄に流されず、乗り越えていくことができるのです。

でも、バランスがとれていないと、そうはいきません。何も相手をうち負かしたり、大成功を収めたり、大金持ちになったりすることばかりが「勝つ」ということではありません。目先のことだけしか見ていなかったり、逆に大きなところばかりを望んでいたり、また、自分が本当には望んでいないことを追い求めていたりしているとしたら、いくら一生懸命に努力しても、満足する結果を手に入れることはできないのです。

誰にでも好かれたくて表面を飾る人には、誰も心を開きません。自分の部屋も掃除できない人が、社会をキレイにすることはできないでしょう。お金があれば家族を幸せにできると、仕事に打ち込んだ結果、家族から見放されてしまう。これらは、バランスがうまくとれていなかったから起こる悲劇のようです。がんばればがんばるほど、望む方向から離れていってしまいます。

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自分が「勝つ」ことは大切です。まわりの人たち、そしてこの世界が「勝つ」ことも大切なのです。本当の喜びは、バランスがとれていてこそ味わえるものですね。人生におけるバランスを、一言でいうと「志」です。「志」があれば、たとえどんなに困難な道でも、目指すところにたどり着くことができるでしょう。

「好きなことをして成功する」「がんばって、自分の目標を達成する」もちろん、どんな道を通っても、うまくいきます。それは「志」という道案内がいるからです。


今の生活や生きる姿勢を同じように続けていれば、5年、10年後の未来はある程度予測できるかも知れません。これは運命と言ってもいいでしょう。

だけど、その運命は決まってしまっているものではなくて、自分で変えていくことだって出来るのです。生き方を変える、大きなことにチャレンジしてみる、新しい選択をする。今を変えることは、未来を変えることなのです。

ふと思いました・・・空を見上げると、黒い雨雲。いつ雨が降ってきてもおかしくありません。雨は嫌なものです。憂鬱になってきたりすることもあります。案の定雨が降ってきました。

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雨に打たれて、傘も持っていないとき、自分だけがものすごく不運に思えてきます。この雨は、降りやまないのではないかと考えてしまう時もあるでしょう。

雨に降られているときには忘れてしまいがちですが、雨雲の向こうには、明るい太陽が輝いているのです。そして、やまない雨はないのです。

待っていればいつかは晴れるのです。晴れた空を望むなら、自分が移動して、晴れている場所まで行くことも出来るのです。

自分の運命は、自分の選択によって決まるのです。ふと思いました・・・苦しいこと。逆境。悲しい出来事。そんなものに出会うたびに、私たちは自分の不運を嘆き、生きることは辛いと考えたりします。

テレビを見ても、新聞を読んでも、悲惨な事件ばかり。戦争やテロの犠牲になった人々、不慮の事故や凶悪な事件に巻き込まれて命を失った人々。ますます気分が滅入ってしまいそうです。

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でも、気づいてください。自分が不幸だ、辛いと感じることができるのは、今、ここで生きているからこそなのです。それを感じることさえ奪われてしまった人々のことを考えてみたら、今自分が、辛い、苦しいと思えることは、どれほど幸せなことなのか。未来があるということは、どれだけ恵まれていることなのか。

そして、悲惨なニュースを知った私たちには、そんな人々の分まで生きて、楽しんで、苦しんで、より成長していく義務があるのではないでしょうか。そんなメッセージをくれているのだとは考えられないでしょうか。

今、この瞬間、生きているからこそ、望む未来を創りだすこともできるのです。未来を決めるのは、運命ではなく、あなた自身の選択によるものなのです。


バラの花を咲かせるためには、バラの種を撒きます。菊の花が欲しかったら、菊の種を撒きます。これは、誰でも知っていることです。

自動車に乗って、アクセルペダルを踏めば、スピードが上がります。ブレーキを踏めば止まります。これも当たり前のことで、誰でも知っていることですね。

叶えたい夢がある。手に入れたい望みがある。それならば、すぐに、その夢に向かって進んでいく。望みを叶えるために、今、できることを精一杯やっていく。そうすれば、夢や望みを手に入れることができる。

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もし、何もしていなければ、いつまでたっても、夢を叶えることはできません。これだって、当たり前のことで、誰もがわかっていることですね。・・・でも、夢に向かって行動を起こしていない人も、けっこういるのです。

何かわからないけれど、焦りを感じる。どうも毎日に充実した感じがない。迷いを感じる。そんな人は、きっと、誰でもわかっていることをやっていないからなのでしょう。知っているのに、そこから目を逸らしているからなのです。

あなたの内側の深いところを、あなたは痛いほど知っているのに・・・何かを拒否するとき、何かから逃げ出そうとするとき、人は、すごいパワーを発揮します。強い決意と粘り強さと、行動力です。

これはかなり大きなエネルギーのようです。このエネルギーは、誰もが自然と蓄積しているエネルギーです。そして、そのエネルギーは、夢を叶えるために必要なエネルギーとまったく同じ質のエネルギーなのです。

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信じられないかも知れませんが、方向が違うだけで、欲しいものを手に入れるためのエネルギーでもあるのです。だから、今まで、「何かをしたくない」「嫌だ」「絶対に逃げてやる」などと、強く思って行動したことがある方には、その逆で、必ず夢を叶えるためのエネルギーも備わっているのです。

だから、今度、「いやだ!」というエネルギーが、あなたのなかに沸き起こったら、そのエネルギーの方向を違った方向へ向けるようにしてみましょう。「恐れ」と「ワクワク」、「迷い」と「意思の力」これも、方向が違うだけで、まったく同じエネルギーなのです。

あなたの中には、どんなに大きな夢だって叶えるためのエネルギーが、いつでも出番を待っているんですよ。


紙に何でもいいですから、何か一文字書いてみます。あるいは、はじめから書かれている文字のひとつを選んで、その文字をじっと見つめてみてください。しばらく見つめていると、目の前がぼやけてくるかも知れません。見つめていることが苦しくなってくるかも知れません。それでも我慢して、じっと見つめ続けてみてください。

そうすると、きっとこんなことが起こってきます。その見つめていたひとつの文字が、ある時、突然大きくなったような気がします。と思ったら、次の瞬間には、視点がぼやけて何も見えなくなってしまうのです。どうしてでしょうか。実は、目で見ているものは、目の前にある物体に当たった光が、眼球を通して視神経を刺激することによって見えるのです。

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見るためには刺激が必要なのです。私たちが何かを見ているときには、たとえ一点に注意を集中しているつもりでも、無意識のうちに眼球が動いて絶えず刺激が入ってくるようにしています。

それを無理に、ひとつの部分だけを見つめるようにしてみると、最終的には刺激がない状態、つまりは、見えなくなってしまうのです。もちろんその途中では、見つめ続けることが辛くなったり、見ているものに恐怖を感じたりして、注意を逸らそうと脳が信号を送って来ることもあるでしょう。

我慢できなくなって目を閉じてしまうこともあるでしょう。もし仮に、そんなことを何度も繰り返していると、その見つめ続けていた文字だけが見えなくなってしまうことだって起こりえます。

「見えない」ということは、人間にとっては生存の恐怖に繋がるものです。だからその恐怖から逃れるために、脳がその苦痛から逃れるために、その文字だけを見えなくしてしまうのです。

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あるひとつのこと。それは悩みだったり、背負ってしまった責任だったり・・・そこだけを見つめ続け、注意し続けていると、かえってその問題の本質が見えなくなってしまうことがあります。

たとえばミカンやりんごがあれば、それを手にとってみてください。その重さを感じてみてください。そして、そのミカンやりんごをグッと握り締めてください。重さを感じることができたでしょうか。

確かに手の中に握っているはずなのに「重さ」はどこへ行ってしまったのでしょうか。見つめ過ぎたり、強く握り締めたり、そんな風に執着することが、今の苦しみの原因だったりするのです。

深呼吸をして、肩の力を抜いて、もっと大きな視野で眺めてみてください。ひょっとしたら、あなたの目の前にある問題、それが、もうひとつ大きくなるための、キッカケなのかも知れませんよ。