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スカッシュコーチGのブログ

スカッシュコーチの悲哀を綴ったサクセスストーリー
になるはずが、いつのまにやら禅の道に迷い込み・・・

これは新聞の人生案内にのっていたものです。

相談は、一人の女子大生。気弱なため、口数少なく、すぐ泣く、運動が苦手で動作も遅いなど、人から侮られることがたくさんあり、これまでバカにされ、都合のいいように利用されてきたという人です。

そんな性格を憎み、産んだ親さえ憎んで、生まれてこなければよかった、と思いつめているという相談です。

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回答の先生は老子のことばを引用しました。

水は先を争うことなく、あるがままに流れて、人が好まない低い所にとどまり、万物を潤す。

実に弱々しいけれど、硬い岩をゆっくり砕き、長い間に大きな役割を目立たずに果たす。

私もこういう生き方ができないかと模索しています。あなたが、殻を破って、人にガツンといえる人になれたとして、ガツンとあちこちで言えば、結局は自分が傷つくんです。

小さな自分を声高に主張しても、いくらのものでもありません。対して、控えめで無心で水のようにあれば、傷つくこともない。

つまり弱さを貫くことこそ、本当の価値ある生き方につながるのではないでしょうか。

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自分の弱さを受け入れて、人は人、自分は自分とわりきり、ありのままで過ごせたら、苦厄は気楽になります。

苦厄は気の流れを滞らせます。その気の流れは一本道ではありません。その人のもつ気が流れ通う道は無数にあるのです。

元気が滞ったら、どっかり腰をおろして、新たな気の流れをみつけましょう。

諸行無常とは、「この世のあらゆる全てのことは刻々と
変わりゆくもの、常なるものではない」ということで、
この世における現象は、永遠なるもの、不滅なるものは
ないということを言っているようです。

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この「無常」の意味するところについては、往々にして
一面だけでとらえがちです。ビックリマーク

雪が溶け、紅葉や桜が散りといった消えゆく様でだけ、
感傷的な「無常」観を持ちやすいのです。

「無常」をたとえて言うならば、
黄色い花
花が咲けば、もっと咲いていてほしいが、いずれ散って
しまうのは、無常です。

木々の枝先に、早春になると小さな蕾を結ぶのも無常。
蕾がふくらんで、花開くのも、無常なのです。
もみじ

人間で言えば老いるだけが無常ではなく、赤子が、
成長して少年になり青年になっていく。これも無常です。
走る人

楽しいこと、嬉しいことは、いつまでも続かないものの、
どんなに辛く苦しいことも、いつまでもそのままではない。
やがて、苦しみ悲しみから立ち直っていく。これも無常。
お月見

過去にとらわれて、今の心が暗く、苦しいのであれば、
それは無常の変化に、自分の心が離れ、追いついて
いないということでもあります。

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「いつまでも変わらない」ことに、こだわりすぎる私たち
の心が、苦しみや悲しみを生むと説いているのです。

                      臨黄ネットより

「いつまでも変わらないもの」 それは「過去」です。
「変えられるもの」 それは「自分と未来」です。

お医者さんの話ですが、すぐに良くなるだろうと思える患者さんと、治るのに時間がかかりそうだなと思える患者さんは、簡単に見分けられるそうです。

患者さんを治療したあと「どうですか?」と聞いてみると、「おかげさまで、大分良くなりました。もう少しで、痛みが取れそうです」と答える人と、

「だいぶよくなったと思うのですが、まだ痛みが残っています。本当に大丈夫でしょうか…」とため息をつく人がいるそうです。

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前者の人は「良くなったこと」を見ていて、後者の人は「残っている痛み」のことを見ているのです。

ですから、前者の人の方が早く良くなるということはおわかりでしょう。

また、いつも会社の先輩にグチや文句ばかり聞かされて、イヤになってしまったという女性がいました。

もう会社を辞めようか、と悩んでいるということです。 「そのことさえなければ、仕事はやりがいがあるし、他の人はいい人ばかりなのに…」と暗い顔をして涙ながらに訴えるのです。

「そんなに、いつもグチを聞かされていてはさぞかしたまらないでしょう。きっと仕事の間中、ずっとその人の側にいなくてはいけないのでしょうね」と聴いてみると、「いえ、その人は外回りの仕事で、帰社時間も遅いので、一緒にいる時間はせいぜい朝の30分くらいなんです…」と答えたのです。

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「では、あとの7時間半くらいの間は、ずっと楽しく過ごせているのではないですか」と言うと、彼女は何かハッと気づいたようでした。

そのあと彼女は、来たときとは別人のように、明るい顔をして帰っていきました。

私たちは、人生という映画を見ているのです。そしてこの映画は、観客が見たいように物語を映しだしてくれるのです。

さあ、もっとその人生を楽しむために、どんなものを見るようにしましょうか。

                      癒しのことばより


「取り立てて才能のない人間が、上司にかわいがられている。なのに、わたしのような有能な人間は、かえって目の敵にされる。世の中はなんて理不尽なんだ」
「なぜ、わたしばかりが不幸な目にあうの?なにも悪いことはしていないのに」

思い通りにならない世の中を「不平等だ」と嘆く人がいます。しかし、それは、ある意味仕方がないのです。世の中は、決して平等ではありません。

禅には「春色に高下無く 花枝に自ずから短長あり」という言葉があります。
後段は「花の咲く木の枝には、短いものもあれば、長いものもあります」という意味で、「世の中が不平等であるのは自然なことなのだ」と教えています。

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一方、前段はどのような意味かというと、「春の光は、すべてのものに分け隔てなく降り注ぐのです」といっているのです。

つまり、「幸福になるチャンス」は、すべての人に平等にやってくることを教えています。これは、それぞれの人に、「その人なりの幸福の形」があることを教えているのではないでしょうか。

上司に恵まれないと憤っている人は、自分を支えてくれる家族がいる幸せを、見逃していませんか。上司に恵まれている人は、病気の家族を抱え、苦しんでいるかもしれません。背の高い人、低い人があるように、幸せの形にもいろいろあるのです。

不平等はある、しかし、幸せになるチャンスは平等なのです。



「いいこと」がいっぱい起こる!禅の言葉より


2週間くらい前からか、スカッシュでコートの中、動き回ってると、たかが5~10分くらいで、心臓の動悸が激しくなり、脈拍140近くまで上昇!?といったこれまで無かった症状が出始めた。(怖)

確かに最近は、仕事のストレスがたまっていたこともあり、そのせいだろうと思っていたら・・・先週の金曜に女子大二回生相手にスカッシュした時も、相手のレベルに合わせて軽く流していたつもりが、やはり動悸がしてきて・・・やばいんちゃう??とか思い始めた・・・

先週は先週で、月曜からストレスのテンコ盛りで、水曜あたりには、神経過敏になりがちだったので、「こらぁ休みとって、気力回復せないかんぞ!」と思い、金曜休暇とって、リフレッシュのつもりで、スポーツクラブに行き、スカッシュ、ランニング、スイムで状態ウオッチしてみた。 どれをやっても「動悸」がする・・・これは全身に疲労がまわってるのではと考えた。

で、翌土曜は、完全休養プラス睡眠をとろうと、午前、午後、夕方と断続的に睡眠をとった。

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で、日曜日、コンディション確認もかねて、スカッシュしたら、相手が上級者もあるけど、少しの動悸でおさまった!? 先週なんぞは、胸が少し痛いくらいに締め付けられ感があったが、そこまではなく、またランでも、足には効いたが、心臓は大丈夫!?といったくらいに回復したのである。

うん、やっぱり寝不足が原因だな!?と思った。 真夏日が続き、夜間も暑くて寝苦しく、明け方やっと気温が下がったころには、出勤支度するといった日々が続き、身体全体が酸素欠乏症になっていたんだろうと思う。

やはり、浅い眠りの連続では、身体は回復しないんだということを、身をもって感じた1週間であった。  なんせ、私の部屋は、クーラー無く、扇風機だけなもんで・・・(泣)



テレビのドキュメンタリーで修験者の熊野縦走を見ていました。険しい山道を行く一行が掛け声に「六根清浄」という言葉を唱えながら行くのを見て、この言葉の意味を調べてみました。

六根清浄とは、人間にそなわった六根を清らかにすることで、六根とは、五感とそれに加え第六感とも言える意識をいうのです。眼根(視覚)耳根(聴覚)鼻根(嗅覚)舌根(味覚)身根(触覚)意根(意識)のことです。

六根は人間の認識の根幹であり、それが我欲などの執着にまみれると、正しい道をいくことは叶わなくなります。

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そのため執着を断ち、魂を清らかな状態にする。そのため不浄なものを見ない、聞かない、嗅がない、味わわない、触れない、感じないために俗世との接触を絶つ山ごもり修行が行なわれたのです。

ところで、私たちは毎朝起きると顔を洗います。この洗面は、汚れの有無にかかわらず行われるのですが、いったい誰が、この洗面を教えたのでしょう。それは道元禅師でした。

道元禅師は「修証不二」を説き、修は修行、証は悟りのことで、それが二つのものでなく一体なのだというのです。

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禅では、修行と悟りを対立させてその間にいろいろの思慮分別をさしはさむことを「染汚」(ぜんな)といって、極度に嫌います。今日では「汚染」という言葉が使われていますが同義語です。

修行は汚れのない行、不染汚の行でなくてはならぬ。修行の時は、求める心を投げ捨て、身も心も修行に打ち込む、それがそのまま悟りだというのです。

「懺悔懺悔(さ~んげ、さんげ♪) 六根清浄(ろっこんしょうじょ♪)」と唱えながら深山を縦走する修験者は、まさに6つの感覚「六根」から生じる、罪や汚れを悔い改め精進する姿なのです。

さ~んげ さんげ♪ ろっこん しょうじょ♪
会社のために尽くしてきたのに、給料は上がらないし、昇進もしていない。家族のために食事を作り、家をキレイにしているのに、感謝すらされない。

人生には「いったい、なんのために頑張っているのかわからない」と、むなしい気持ちでいっぱいになることが、あるかも知れません。

しかし禅では、「何のために、と問うこと自体、意味がないこと」と教えます。

「途中に在って家舎を離れず」という禅語があります。

「途中」とは、「修行の途中」という意味。「家舎」とは、「修行の果てにたどり着く、悟りの世界」を意味する言葉です。

やや難解な禅語ですが、これが言おうとしていることは、「悟りを得るために修行をしているのだ、と考えてはいけない」ということです。

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そう考えると、「修行」は、単なる悟りを得るための「手段」になってしまうからです。しかし、「手段としての修行」は、辛く、苦しく、つまらないものです。

そうではなくて、「修行することそのものに、楽しみや幸福を見つけ出す努力をしなさい。修行する結果として悟りが得られるのではなく、修行自体が悟りなのだ」と禅は教えます。

仕事でも家事でも、「何かのために」と考えれば、見返りを期待してしまい、報われなければ不満に思うでしょう。でも、家事や仕事自体が楽しいと思えれば、不満は出てきようがありません。

スピードを上げようと挑戦したり、新しい方法を考案したりするなど、結果ではなく、行為自体を楽しむ方法を見出すことを工夫してみましょう。


「いいこと」がいっぱい起こる!禅の言葉より

「格好いい自分を見せたい」「周りから一目置かれたい」という気持ちは、誰にでもあるものです。

それがいい方向に働くと、「名著をたくさん読んで、人間性を高めよう」「いい仕事をして、認めてもらおう」「勉強して、知識や技術を磨こう」といった。 「向上心」につながります。 しかし、その思いが強くなりすぎると、悪い方向へ作用します。

自分をよりよく見せようとしてブランド品で飾り立てたり、助けを得ないと無理な仕事なのに、自分一人でできると虚勢を張ったりするといった、見栄につながります。 いくら見栄を張っても、本来の自分を偽っているのですから、うまくはいきません。そのうち、「いい格好」をするのに疲れてしまうのがオチでしょう。

「柳は緑 花は紅 真面目」という言葉があります。

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これは、「春になると、柳は緑色の葉を芽吹き、花は赤く咲き誇る。それが、自然の成り行きなのだ」という意味であり、「人間も、自然の草花のように、自然の成り行きに任せて生きていくのがいい」という意味です。

水を吸い、養分をたくわえ、時がくるのをじっと待っていれば、無理をしなくても、自然は美しく芽吹き、素晴らしい花を咲かせます。 人もまた同じように、無理をして虚勢を張らなくても、できる努力を着々と重ねているのであれば、それで十分。

やるだけのことをやったら、あとは自然の流れに任せましょう。 ありのままの姿であることが、一番、疲れ知らずで、かつ、自分を美しく咲かせる最良の生き方です。



「いいこと」がいっぱい起こる!禅の言葉より




A社とB社から内定をもらったけれど、どちらの会社に就職するのが自分にとって最善なのか判断できず、決められない。

AさんとBさん、両者からプロポーズされ、どちらと結婚すべきかと迷っている。こんなふうに、人生では、AかBのどちらか一つを選ばなければならないことが、しばしばあります。双方には、それぞれメリットもデメリットもあって、両方をとることが出来なけいとなれば、さらに迷って、決めかねるでしょう。

どちらにすべきか、選択に迷う人に対して、禅は大変厳しい教えをします。「両頭ともに切断して、一剣天によってすさまじ」という禅語では、「決められずに、迷うくらいなら、両方とも、剣で切り捨ててしまいなさい」とまで言っています。

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そもそも、AとBを見比べるようなことをするから、迷いが生じるのです。メリットとかデメリットとかを抜きにして、自分の心によくよく問いただしてみれば、本心から望んでいるものはどちらか、自然に理解できるはず、そう禅は教えています。

自分自身がどうしたいのか、それを自分に聞いてみることです。そして、自分の気持ちに合致したならば、選べばいいだけのこと。もしかしたら、どちらも合致しないことだってあるはずです。

見比べることをやめたとき、迷いもスッキリ消えてなくなります。



「いいこと」がいっぱい起こる!禅の言葉より




たとえば、数年ぶりに学生時代の友人と会ったときなどに、ふと「自分と相手と、どちらが若く見えるだろうか」「どちらが、多く稼いでいるだろうか」「どちらが、幸せな人生を生きているだろうか」などという考えが、頭をよぎることがありませんか。

人は、自分と他人を、つい比較してしまいがちです。そして、「やった、勝った」とほくそ笑んだり、人生のなにもかもが負け劣っているようで、生きていくのも辛くなったりします。

そんな風に自分と他人を比べて、優劣をつけることをいさめるのが「至道難しきこと無し 唯だ揀擇を嫌う」という禅語です。揀擇(けんじゃく)とは、自分と他人を比較することです。

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「悟りを得るのは、それほど難しいことではないのです。ただ、自分と他人を比較したりしなければの話ですが」というのが、この言葉の意味です。

「あの人と自分と、どちらが悟りに近づいているだろうかなどと比較するから、そこに迷いや焦りが生じて、かえって悟りから遠ざかってしまうのだ」という教えです。

「悟り」を「幸せ」に置き換えれば、わたしたちも身に覚えのあることがたくさんあるはず。自分なりに一生懸命生きているなら、他人を気にする必要はありません。幸せは人それぞれ。比較しなければ、幸せになるのは簡単なのです。


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