2025年に赤色図が公開されたら多くの城が見つかった。
道路が付近にない山の尾根に直角に筋が入っていれば、堀切の確率は高い。
そこをターゲットに山に入ると見つかることが多い。


平地では開発が進み、破壊されたりして見つけるのがなかなか難しいが、山だらけの場所からはあちこちから見つかる。
開発から取り残された地というわけだが、ここで紹介する城もそうやって見つかったものだ。
もちろん、全て本邦初公開である。


全て、袋田の滝で知られる茨城北端、福島県境の大子町の山中にあったものだ。
ここ大子は金が採れたので中世の途中から常陸国に編入された。
それ以前は陸奥の国、東北地方だった。だから何となく東北の雰囲気がある。
常陸国なら守護は俺、金山も俺が支配するのが筋と強引に佐竹氏がやらかしたという。
なんだか、プー珍大統領の理屈と良く似ている。
まあ、古今東西、どこもこんなもんだ。


で、金が採れただけあり、ここを取ったらリッチになる。

ということで争奪戦も激しい。そんなんで城が沢山ある。


佐竹氏の支配が確立される前の時期の城なので戦国後期のものじゃない。

それより古い時期のものばかりであり、小さく古風なものが多い。

その中のいくつか、立神城、前柏原砦、竹ノ内砦、矢倉砦を。
みな、2026年1月以降に見つかったものです。やっと世に出せる。

ではHP立神城、前柏原砦、竹ノ内砦、矢倉砦 

にて

 

またまた城のフェイクもの記事です。好きだねえ。

まあ、俺もフェイクのようなもんなあ・・・。


城マニアの中には何を見ても、城に見えてしまう者がいる。誰とは言わないが・・・。
川や池を見たら水堀、堤防を見たら土塁、切通しの道は堀切である。

ここまで来ると一種の病気・・?である。
 

そんなことを言う俺も、多少、その気がある。病原菌に汚染されたか?
実は、この女堀、これを見た時、俺は「城」だと思った。
遠くから見れば堤防は城の土塁である。それもかなり立派な。

 

実は「女堀」、その名前は聞いたことはあった。
始めは何というスケベな名前か!どこかの怪しげな飲み屋の名前か?と思った。
現実、そんなたいしたものじゃないだろう・・と、でも、あんなでかいものとは思わなかった。


遠くから見ると確かに土塁のように見える場所もある。
土塁?の高さは3~4mほどもある。それが続く。まるで長城である。
でも城として利用された記録はないようであるが。


↑ これ、遠くから見た時、俺は城と勘違いした。

この女堀、群馬県の赤城山南麓にある用水路跡であり、標高95mの等高線に沿う形で、前橋市上泉町から伊勢崎市国定町までの東西12.75㎞の長さを持つ、幅は15 ~ 30m、深さは3~ 4mの規模を持つ。
かなり破壊されてはいるが部分的には完全な形で残っているところもある。
赤堀菖蒲園は女堀の水路を利用したものである。

↑立派な土塁である。いや、堤防なのだ。1000年以上前の。

この女堀という怪しい?名称であるが、女性が簪で一夜で掘った溝の跡であるとか、女天下の時(推古天皇や北条政子)に掘られた溝の跡であるなどと言われてきた。しかし、各地に「女堀」が点在していることから、現在では「嫗(おうな)=役に立たない」ことに由来する)という説と、「大溝(おおうてな)」に由来するという説もあるそうである。

この女堀、記録はないそうである。
しかし、平安時代末期に造られた未完成の農業用水路跡と推定され、一部が国の史跡に指定されている。
時代が分かったのは1979年(昭和54年)から1983年(昭和58年)にかけて行われたの発掘調査で、女堀の掘削排土の下から1108年(天仁元年)の浅間山噴火のテフラが見つかったことによる。
そのことから、平安時代末期に秀郷流藤原氏の一族によって開削されたという説が有力となっている。
工事の主体は秀郷流藤原氏の一族、大胡氏や山上氏と推定される。


取水地は当時利根川の主流であった現在の桃木川とみられ、上泉付近である。そこから東に水を引き伊勢崎付近に給水しようとしたらしい。
しかし、その間には荒砥川、神沢川、粕川が流れており、それらの河川を越える必要があり、高度な技術の要求される難工事だったと思われる。

結果として通水されたの痕跡がないことが確認されており、未完成であったことになる。
その原因としては、洪水などの自然的原因、渡河方法などの技術的要因、内乱などの政治的要因が指摘されている。
近年では現地の有力な武士であった新田義国等の河内源氏と秀郷流藤原氏の土地支配を巡っての対立関係により、工事が中断されたという説も出されている。
現在ではそのほとんどが埋没したり、水田などに転用されているが、前橋市富田町、二之宮町、飯土井町などに比較的保存のよい部分が残り、国の史跡に指定されている。
伊勢崎市下触町に約600m。前橋市飯土井町に約200m、前橋市荒子町に約200m、前橋市二之宮町に約600mが残る。


伊勢崎市下触町では女堀が桂川の河道に転用されている。部分的に水路として使われた場所もある。

(伊勢崎市発行のパンフレット、Wikipediaを参考にした。)
しかし、平安時代にこのような大規模な土木工事が行われていたとは驚きである。
ではHP 紀行集 女堀にて

 

タイトル、あの名曲「線路は続くよどこまでも」ではありません。
その曲が歌われた国の大統領さんでもありません。

最近、見つけて来た城のことです。
だいたい、今頃、見つかる城って、ほとんどマイナーなものばかり、大物は既にほとんどが見つかっています。
だから、ほとんどは果たして城館なのか分からないような怪しげな物件ばかり。
つまりフェイクの可能性がある怪しい物件、詐欺まがいのものが多い。

この城もそんな城の一つ。だいたい、戦国時代の多くの城館は一時的に使われただけのもの。
つまり使い捨てのようなものが多い。
だから立派な土塁や堀もなく、小屋があって柵があった程度だろう。
だから現在になると城なんだか何なのか分からなくなる。
ここも、1度、見ただけでは理解できず、2度行った。それでもまだ確信は持てない。

この城館があるのは常陸大宮市の旧玉川村のJR水郡線が通る谷間である。
ここには物見台、狼煙台程度の小さな城館がいくつか確認されている。


その照田地区西にある溜池「沖溜」の南東側の鉄塔が建つ山が城館らしいのである。
確実な城郭遺構は山頂北東の堀切だけで、山頂部が平場になっている程度である。

山頂南側の鉄塔が建つ場所付近は段々状になっており、数m四方の広さの平場がいくつも展開している。
これが城郭遺構なのか、鉄塔工事に伴うものか、それとも耕作に伴うものか、一面の篠竹地獄でもあり判断できなかった。

しかし、鉄塔工事でできたものにしては範囲は広く、畑にしては狭い、段差も1m未満であり風化した感じであり、曖昧な感じである。
一番外周の帯曲輪のような場所の切岸がはっきりしていること、そこから水田地帯までの比高約20mにかけてはなにもないこと、及び堀切の存在からこれは城郭遺構の可能性が高いと思えた。


この斜面、日当たりがよく生活空間としても条件はよさそうである。

さらに沖溜の南西側の山にも堀切を持つ出城と推定される城郭遺構がある。
これらを総合すればここが城郭である確度は高そうである。

この2つの物件も含め、ここ照田地区には小城館密度がやたら高い。この濃密さの要因はなんだろうか?
佐竹氏の内乱、部垂の乱の頃の緊迫感を表しているように思えるのであるが、果たして?

 

いや、やっぱ、俺、詐欺物件に引っかかったような気もするんだけど・・・。

ではHP   照田館、照田西館 他 にて

 

やっとホームページの更新ができるようになりました。
どうやって可能になったかというとごく単純なもんでした。
それを知らなかった俺の無知を曝け出すことになるので(恥ずかしいので)ここで書くのは止めます。


しかし、つくづく、今の世界、アナログ人間のジジイはダメですねえ。
俺、仕事はアナログでした。何しろずうっとアナログの世界の住人でしたから・・


でも、おかしいことに俺の仕事は比較的先進の分野というイメージがある「原子力」ってのが笑います。
どこが?「原始力」の間違いでしょう。その方が似合います。


仕事のモットーは「義理と人情、貸しと借り」好きな言葉は「匙加減」でした。
まるでその筋の業界の人間みたいです。
まあ、ある面、そうかもしれません。
ともかく再開できたのでめでたしめでたし。


で、再開、第1弾、栃木県茂木町の「千本城」です。
栃木県茂木町の城館をHPでアップをしていますが、茂木町での調査に協力していたためです。
一応、戦国領主の茂木氏の領土の城館が対象なのですが、茂木町には那須一族千本氏や宇都宮一族益子氏の領地があり、城館がある。
2025年1月、ちょっと時間があったので同じ町内にある千本氏の本拠千本城に行った。
前回行ったのが2008.3.8なので実に17年振りでした。


城は17年前とほとんど変わらない状態だった。畑になっていたところが耕作が放棄されていたくらいか。
この城、山城なんだけど、城主が山城に住んでいたという。

茨城では珍しいタイプ、そういう城、笠間城くらいかな。


でも栃木県に入ると茂木城とか烏山城とか、城主が山城に住むタイプの城がある。
当然、広い城である。

そしてこの千本城、もう1つ特徴がある。戦国最末期の姿を伝えているのだ。
築城は古いが、秀吉が天下統一を果たした後の頃、千本氏が大改修を行った。


なお千本氏は那須一族なのだが、当時は茂木氏に乗っ取られてしまっている。

上方の城も見て、その技術を取り入れている。それなので馬出とか桝形虎口などがそのまま残る。
江戸時代は麓に陣屋を構え、山城を廃城にしている。だから、戦国末期の姿がフリーズされているのだ。

 

廃城といっても全く破壊されていない。

千本氏、乱世が訪れたら山城を復興させる気だったように思う。
しかし、その時が訪れることはなかった。

 

今回は西側に位置する展望台と言っている出城(西出城?)と南側にある出城にも行った。
展望台という名の出城、展望台という名の通り、眺望がすばらしい。
北は那須連峰、西は宇都宮・鹿沼方面、南は筑波山がバッチリ見える。
それらの結果も加えてHP記事をリバイス。

ではHP  千本城 にて

 

ここしばらく、ホームページの新規更新ができないでいる。
記事を作ってアップしようとしたが、送信エラーが出てしまい「にっちもさっちも」という状態。


せっかく、溜まっているネタの一掃を目論み、HP記事を一念発起して作り始めたのだが、それがいけなかったのか?

そんな殊勝なことを考えた俺がいけなかったのか、やはりテキトーで済ますべきだったのか?

 

結果として溜まっているHPネタがますます溜まる事態となり、消化できなくなり、さらに渋滞状態を引き起こすことになっている。
何だか、ホルムズ海峡の状態に近い。


解決策はないことはないのだが、じじいの俺には実行が面倒臭い。
そのふんぎりがつかない。
さて、どうしたもんかなあ?