4/1のブログに南相馬について投稿しましたが、しゃべり足らずでエッセーを書きました
たいちゃんと再び南相馬へ
孫のたいちゃんと南相馬の野馬追に出かけたのは4年前。たいちゃん年中組の時だった。
そして翌年にあの東日本大震災が起こったのだった。
今回は飛行機で仙台に飛んだ。新婚旅行以来のプロペラ機、1列4席ずつの小さな飛行機に、ジャンボしか乗ったことがないたいちゃんは不安そうだった。
仙台から南相馬までは、線路がズタズタに途切れている。よって鉄道、バスを乗り継いで延々時間のかかる旅になりそうだったが、有難いことに従妹が仙台まで迎えに来てくれた。
3年も経っているのに復興は遅れに遅れている。
28キロ圏内に住んでいる叔父さんも88歳、頭はしっかりしているものの、ほとんど寝ているようになってしまった。震災後すぐはすこぶる元気だったのに。「百姓は毎日体を動かしてきたんだー。やることがないといことが、一番つらいもんなんだー」と言っていたのを思い出す。
近所の親戚が集まってくれた。
驚いたことに、今回は皆が皆震災当時のことを堰を切ったように話し出したのだ。一昨年に弟とお見舞いに行った時はあまり話さなかったのに。
3年という歳月が話す気持ちにさせたということなのだろうか。
南相馬の人たちは「ここに津波は来ない」と信じていたのだ。
だからあれだけの地震の後でも、疑わなかったのだ。
叔父さんの孫、K君は当時消防団の一員だった。地震の時、買ったばかりのプリウスと共に消防署にいた。
しばらくして「津波が来た」という叫びに彼は海に向かって消防車を走らせた。消防団として何かの助けになるだろうという思いもあったかもしれないが、「津波を見に行った」というのが正直な気持ちだったらしい。
海に向かって走っていると、真っ青な空の下に真白なものが突然出現した。「今までに見たこともないきれいな景色だった」と言っていた。思わず携帯のカメラにまで収めている。そして気が付いた。真白いものは防波堤にぶつかった波の色、やがて防波堤をぶち破り、姿を変えた津波は真っ黒く変身して前方からすごい勢いで押し寄せてきている。
彼はその時始めて「ヤバイ!」と青ざめた。何しろ彼は津波に向って車を走らせているのだ。
もうこれまでと思った時、右に曲がる道があり九死に一生を得た。
このことは弟との訪問の際には彼から、いや誰からも聞いていない。
翌日その道を案内してもらった。Uターンすることもできない田んぼ道、
そこに右に曲がる道があり、曲がるとすぐカーブしながら昇りになっていた。
津波を避けるにはもってこいの道である。平坦だったらきっとやられていただろう。
神様が助けて下さったとしか言いようがない。
買ったばかりのプリウスは消防署とともに津波にのみ込まれてしまった。
「自分の代わりにプリウスがさらわれたんだ」と複雑な思いで話してくれた。
親戚宅には当時乗った小型消防車が駐車してあった。
今や彼は消防団長。隊長宅にはいつでも出車できるよう置いてあるのだろう。たいちゃんは消防車に乗るなんって機会はめったにないので、大喜びであった。
親戚の近くに火力発電所がある。
隣接している海水浴場はサーフィンにも適しているらしく大きな大会も催されたこともあったとか。
津波で海岸近くの山は無残に削りとられ、根っこがむき出しになっていた。海岸にあったでか~いテトラは流され、山の裾野で溜まっていた。「何とすごい力なんだ」とテトラまでも運んでしまう津波の威力に圧倒された。
海岸まで数メートルという所に、家が立ち並んでいたらしい。わずかの残骸から想像できる。
「何でこんな海に近い所に家を建てたの?」、今だから言える言葉なのだろう。何せ「ここは津波が来ない」と信じていたのだから。
地震後、ここの人々は避難した。しかし最初の津波が収まると、家に帰った人たちがかなりあったらしい。
そして2度目の津波で皆やられてしまったのだ。不幸なことに2度目が一番大きかったのだから。
海から1~2km離れた親戚宅の傍に堤がある。
津波は海側の堤の土手を超え、そこで力尽きた。当時は死体がかなり浮いていたという。
堤は親戚等5軒の農家の所有物。農作物を作れなくなった今、堤は手つかずで放置されている。津波で流された泥で埋め尽くされ、雑草がはえ、水は一滴もない。
昔あんなに大事だった水は不要のものになってしまった。
車から見る何列も立ち並ぶ仮設住宅をみると、悲しくなる。
都会と違って皆ゆったりした住宅に住みなれている人々である。どんなに不自由であろうか。
今や仮設住宅から出られるよう、高台に次々と家が建ち始めている。
津波に流された従弟の家もダンプカーがしきりに往来して、整地されているところだ。
確かに復興は遅れに遅れている。しかしガレキはなくなっていた。あの気の遠くなるほどのガレキの撤去にはさぞかし時間がかかったことであろう。
これから急ピッチで復興が進んで行くのではないかと期待している。
名古屋に戻り、疲れをおして(勝手に行ったくせに)、留守にしていたわが家を掃除した。
きれいに片付いた部屋を見ながら「あー、やっぱり家が一番、幸せ!」。
いつもはそれで終わる感慨も、「まだ仮設住宅に大勢の人たちがいるんだ。そして福島の人たちは原発の影響をこれからも心配しながら生活していかなくてはいけなんだ」。
些細な幸せも何か複雑なものになっていったのだった。