私が記憶している私の歴史をひもとき、「今の私」がどうやってできたのか解明しようという試み~「私はどうやってできたのか」 続きです。過去記事↓私はどうやってできたのか①私はどうやってできたのか②私はどうやってできたのか③私はどうやってできたのか④就職先に選んだのは、社員数百人の中小企業だった。
叔父の縁故で大手旅行代理店を受ける話もいただいたが、中小企業の方が女性が活躍できる場が多いと思っていた。
何より若い会社で活力があった。
配属は京都営業所、四条烏丸のど真ん中だった。
始めは、店売業務。お客様への接客だった。
お客様と話をするのは楽しかったし、商品が売れやすいように並べたり、ポップを書いたりするのも楽しかった。
若い営業所で、所員はすべて20代、大学のサークルのようなノリだった。
2年程して、希望していた営業に配属になった。
旅行代理店をまわって情報収集したり、旅行説明会に参加したり、空港でのセンディング(出発案内)などで忙しかった。
当時は伊丹の大阪空港だったが、中国や香港などへの便は集合が朝早く、旅行説明会は夜あったりして、朝早くから夜遅くまでよく残業した。
北は北陸道木之本から中国道豊中まで、高速もよく走った。
おにぎりをかじりながら、時速120kmで飛ばした。今でも運転はおっさん運転である。
営業成績は悪くなかったように記憶している。
ただ、世間話をしていただけだったが、かなり売上があがった代理店もあった。
「うちにおいでよ」と言ってくれるところも何社かあった。
「プロ添(プロの添乗員)になってよ。そうしたら、いつもお願いできるから~」と言われたりもした。
しゃべることは苦手だったが、相手の懐に飛び込むことができるようになった。
その頃、フラワーデザインを習っていて、いずれフラワーデザインを仕事にできたらいいな、と思うようになっていた。
お花屋さんに転職したいと、その仕事をやめることにした。
今思うと、営業数字に関して常にお尻を叩かれること、長時間残業手当なしに働くこと、そして、売る商品を積極的に勧めたいと思えなかったこと、そして、営業の孤独などがやめる引き金になっていた。
新しいステージへと思い込もうとしていたが、実際のところは嫌になってしまったのだ。
約5年で、その会社を辞めた。
嫌になってしまったのは、仕事や会社ではなく、自分自身でもあった。
仕事をしている時は、男性のようにバリバリ働く強い女性だった。
一方、自分の中には弱い部分もたくさんあって、強く見せることに疲れてしまったのだった。
せめて、家族に対して弱い部分をみせられていたら、違っていたのかもしれない。
家族の前でも、強い女性で居続けた。やめることをどうしても言い出せず、送別会の花束を見た母に「これ何?」と聞かれて、やっと「辞めることにした」と伝える有り様だった。
辞めたあと、しばらくして念願のお花屋さんに就職が決まった。
京都では大きめの花屋で、お店の他、ホテルの宴会などにも入っていた。私は、ある老舗ホテルの宴会の部署に配属になった。
その部署のリーダーは、ある意味昔ながらの職人のような人だった。すぐに花をささせてもらえない。アレンジや花束をつくることを夢みて入った花屋だったが、花の掃除、花をさすオアシスの準備、出来上がったアレンジを宴会場にセットして引き上げる、の毎日だった。
それでも、男性3人の中で紅一点、営業で身につけた図々しさで仕事をしていた。
そんなつもりは全くなかったが、「おまえは、あーいや、上祐(こういう)や!」とよく言われた。どんな対応していたんだろう。ここでも全く自覚はない。
約2年働いたが、結局花をさすことなく、辞めることになった。
いろんなことがあり、うつ状態になってしまったのだった。
寝れない、食べれない、人に会うのが嫌、という状態で、どんどん痩せていった。
どうしたらいいかもわからず、ただ一人、部屋で泣いていた。
ある日思い切って、心療内科に行って、薬をもらった。
薬を飲むと、久しぶりに夜眠れて、明るい気持ちになれた。
結局、病院には2回行ったが、1回めと2回めの間に母に言われた言葉に救われ、それ以上薬を飲んだり、病院へ行ったりすることもなかった。
何を言われたのか、憶えていない。
ただ、受け入れてもらえた安心感があったような気がする。
このうつの期間に、スピリチュアルの世界との出会いがあった。
長くなったので続きます。