メロンが結んだ両親の思い出の話し。(記録を少し綴り)

・【今回の記事内容】
↓
(この記事を"まとめると、")
→こんな感じの話しです。
当時、
いまは亡き母と
交わした会話の中の記憶と
思い出のヒトコマから記事の話しが始まります。
①以前の記事の"続きからの始まり"
②"メロンが結んだ,"
亡き両親の馴れ初めの話し思い出の話し
③母の好きな花と
母の好物のメロン2つを持って,
父から母への
勇気最大の一生懸命な
"プロポーズ。"の思い出を聞かされた当時の話し。
喫茶店のマスターさんが
キューピッド役で一躍担い役!?
④亡き母の入退院の際に利用した制度の話し少しと、
療養食やリハビリ指導を取り入れながら
工夫を重ねてた話し少し綴り
【記事途中で余談として書いた】↓
学生時代の頃の私の話しも少しだけ書きました。
音楽系の全国大会へと大会場所へと渡り
若かかりし頃の両親が降り立った
空港に足を踏みおろした時の
当時
その頃の私の
"言葉にならないくらい感動した話しも少しだけ織り交ぜながら"
その時の空気や余韻が
今でも忘れられない
その時の当時の
今でも宝物の思い出の話しも途中くらいに書いています。
今回の記事内容は
読み物的なようなモノです。
(少し記録綴りも含めてみながら
書きました。)
☆(記事の始めから結びまで、☆
↓
長───い書き綴りになっております。)
読むのが大変かと思いますので、
先ほどの上記の↑
・【今回の記事内容】
(この記事を"まとめると、")
→こんな感じの話しです。
の部分だけでもスルーされても大丈夫です。
"それだけでも感謝です、"
「どうもありがとうございますデス。」
────────
インスタの方には
今回記事に投稿した写真と
大まかに小分けして書いたのを投稿しました。
────────
■コチラのリンク記事投稿後
↓
何気ない日常ヒトコマ編(再投稿記事として)
記事の投稿を迷い
一度は下書き保管のまま
記事を寝かして置いといたのですが
ここ最近、
しばらくぶりに
読み直してみながら、
当時、
いまは亡き母と
交わした会話の中の記憶と
思い出のヒトコマを
("大正生まれの母方の亡き祖父母
田んぼとサトウキビ農家だった
祖父母は
"お見合いでの縁で結婚をしたこと。")
("亡き両親、
私の父の一目惚れから始まった
今は亡き両親の馴れ初めの話しを、"
当時、闘病中末期のステージの
そういう中にいた
"今は亡き母との
最後の交わした会話の中で、
あの時の
あの当時の母の言葉と想いと
当時の私自身の姿の思い出と。"
当時のコトを振り替えってみると、
今と
その頃のその時と当時と、
気持ちや想いの部分で、
─何が,どう変化してきたのか。─
私自身の中で、
─その変化の部分で─
"どう気持ちが変わりはじめてきたのか、"
今の私自身の中で
そういう書き綴りを
試しもかねて通してみながら、
当時のコトを
私自身の
思い出の中にある記憶として
今は、
記録の1つにと思い"
そういう思いで記事を置いています。
今の私なりに思い出したこと
"以前とは違う持ちようで,"
"時と時間と月日を越えてからの今だから,"
"当時の頃の私とは違う
想い模様に触れて今さらながら、
今の私自身気が付けた事があったこと、"
"少し思い出した一部分を解いてみながら"
─その時の想いの部分や、─
"今さらの私の気持ちや想いも
少し振り返りながら書きました。"
特に懐かしい記憶の優しい思い出でもなく、
触れるまでもない、
─そんな"思い出を。"─
ここ最近思い出した"記憶"がある。
特に思い出さなくても良い
記憶なのですが、
─遡ること。─
1日が一瞬で過ぎたのかと思うくらいの
スピード感を感じながら
自分自身のコトを考える間もない日々を
そういう日々が
目まぐるしく
あっという間に過ぎていく
そんな中で、
自分自身で疲弊しきってた,当時は,そんな自覚はありつつも、
そんな悠長なコトを感じてるヒマも時間も
─自分自身の気持ちや心に余裕を感じなくなっていたコトにさえも感じず、
何も気がつくヒマも"ゆとり"さえも忘れ
持たぬままで翻弄した日々を走っていました。─
亡き母の入退院の際に利用した制度手続きで
当時の病院での医療事務会計の案内の方に
・特定疾病受給者証や
・限度額適用・標準負担額減額認定証
・医療費控除の手続きを行政窓口担当課の方で還付申告をするか,確定申告で申告手続きをしても構わないので。
という説明を受けて、
仕事の合間時間でお昼休憩に急ぎ
母の代理で行政窓口担当課の方で
手続きを済ませたり税務署での手続きも済ませたり
退院の際の会計で支払いを済ませたり
前夜か翌日に早起きして
家を出る前に母の療養食を作りおきして
退院後の
療養食やリハビリ指導を取り入れながら
減塩と水分量の日々のバランス調整や
1日3食のうち、
朝は母の体調や様子や食の好みに合わせて
お味噌はお昼用に、
具沢山で減塩
野菜多めに海藻類やエノキやコンニャク等々や
白米の代わり置き換えに夕食の時だけ
木綿豆腐を薄く味つけて
他のおかず類を小鉢の数とで足したり引いたりしながら
魚類肉類も野菜をプラスしながら
リハビリ指導で受けた説明を参考にしながら
母の身体の負担を考慮しながら
散歩のコースも野外散歩ではなく、
母のメンタル面や身体の息抜きに
ショッピングフロアのコースを
10分だけの散歩に切り替えて
買い物がてらにフロアを歩くだけでも運動になるから。
と受けた参考を,
その時々の母の体調に合わせながら
工夫を重ねて
仕事の休日の日にだけしか出来なかった
母の散歩コースだったのですが
そういう日々の時間が刻々と告げてはと、
─繰り返しの時間が去っていきました。─
目の前の現実と、
美化物語ではない、
キレイな美しき記憶の思い出としてではなく、
その当時の背景が、
"そのままに"切り取られた断片のように、
私の記憶の一部の思い出として、
残されていました。
季節も感じるような
ゆとりも持ててなかったままの、
─その午後の出来事、─
母の余命宣告を独りで
お医者さんから告知の話を聞いたこと
たくさんのイロイロが重なり
とても疲れてる日々を過ごしながら、
疲弊しきっていた
自分自身にさえ気が付かないまま、
私は、
今は亡き母から、
母の闘病中の時間の中、
母との別れが訪れる
─ホンの数ヶ月前の出来事の中で、─
そんな日々が続いてた
─ある日の時間の中で、─
母から"母の思い出話し"と、
母の最後になった
当時の私への母なりの"想い"を伝えられました。
今回は、
その日のヒトコマの思い出の話しを1つ。
母と父が知り合った当時の、
両親が若かかりし頃の時の、
馴れ初めのエピソードの話し、
当時、
私の記憶にある
思い出のページとヒトコマの
母と交わした会話の中で、
その時の、
母のエピソード話しは始まりました。
若かかりし頃の、
20歳だった当時の母は、
出稼ぎで故郷の沖縄から
神奈川の工場の方で最初は
働いてたそうです。
その後、
喫茶店のウェイトレスさんとして勤め
そこへお客さんとして、
連日,通い常連客になった父は、
母に一目惚れをして、
当時の母の話しの内容だけではあるのですが、
その話しの内容によりますと、
当時の父は、
当時の母への想いで、
どうにかキッカケが出来ないものかと、
恋わずらいをして
伝えたい想いを伝えたくて
恋わずらいの中
迷い考えていたそうです。
父は無口で
口数も少ないタイプの父でしたので、
その当時父の心境を、
なんとなくイメージしてみながら、
話しを続ける母の
"思い出の話しを聞いていました。"
当時の父は、
連日喫茶店へと足を運び、
声をかけるようなタイプでもない
無口で口数も少ないタイプだった父は
きっと…、
そこからの勇気は持てなくて、
どこかにキッカケは落ちてないかと
探してたのかもしれません。
私は。
父のその当時の時の必死だった姿が
目に浮かび、
母から話しの続きと
その後の展開を聞かされてる途中
父には悪いと思いつつ、
と、
そんな風にも思ってみたりと、
父も、
また,故郷の沖縄から出稼ぎ上京して、
父がはじめて勤めた工場は、
愛知県で,ながく勤めて
地下鉄を迷わずに乗れた伝説の話しも,
よく自慢げに、
当時,幼かった頃の私に話して聞かせてくれました。
その後、
風向き変わり、
神奈川県の方へと、
電気水道工事の会社へと入社し、
独り者だった当時の若かかりし頃の父は、
その会社での帰宅途中にあった
喫茶店で,アイスコーヒーと、
カツカレーを夕食にして食べて
風呂無しアパートへと帰宅してたそうです。
お風呂は近所の銭湯で、
洗濯物は共同の場所で、
そういう日々と季節を過ごしてた
父の目の前に、
当時、
20歳だった若かかりし頃の母が
ウェイトレスさんとして、
お客さんだった父に、
注文のメニューを訪ねて来たそうです。
きっと…
当時の若かかりし頃の父には、
当時の若かかりし頃の20歳の母が
キラキラと輝いて映って見えたのかもしれません。
(私がいうのもなんですが、
決して身内ぴいきではないのですが、
確かに,20歳の頃の写っている
母の写真は、可愛いと綺麗と両方あって、
父が一目惚れしたのも納得して頷けました。)
母が注文のメニューを訪ねて
父は、
無口と口数の少なさを必死におさえて、
あわわと、
緊張しながら、
ウェイトレスさんとして勤めた当時の母に
そのメニューを、
声をふるわせながら伝えたそうです。
常連客として通い
日々と季節の中、
─ある日、─
その喫茶店に、
ウェイトレス姿の母の姿が無かったコトに
いち早く察知して気が付いた父は、
喫茶店のマスターさんに、
いつも注文メニューを訪ねてきてくれた
ウェイトレスさんはと、
聞くのを躊躇し迷いながらも、
最初で最後だと勇気を出して
マスターさんに訪ねてみたそうです。
当時、
(平成の時代もだいぶ前の時代のコト。)
(黒電話も高級で,
両親は手紙か、
商店の電話を10円を支払いながら
その商店の電話を借りて故郷の沖縄の家族へ
用がある時だけかけてたそうです。)
─そういう時代、─
喫茶店のマスターさんは
(母は)風邪で休みなんですよ、
と、
父に答えたそうです。
母が風邪で…
心配のあまり狼狽え
…たか~どうかは
(あくまで私のイメージです。)
喫茶店のマスターさんに、
母の好物の食べ物と
果物を訪ねて聞いた父は、
喫茶店隣の八百屋さんで、
先に支払いを済ませて
メロン2つを、
母が風邪から治り
喫茶店へと出勤したら届けてほしいと
頼み、
母の好物のあんパンを
パン屋さんで
先に支払いを済ませて
母が風邪から治り
喫茶店へと出勤したら届けてほしいと
頼み、
喫茶店のマスターさんに、
お見舞いとして渡してもらえないかと
とても大きな勇気を出して
頼んだそうです。
風邪が治り、
喫茶店へと出勤した母は、
目の前に届いた
メロン2つと
あんパンがたくさん入った
可愛い編みかごをみて、
驚いて
喫茶店のマスターさんに
その話しの経緯を聞いた母は、
"……………。"
お客さん…!?
いつも注文のメニューの際に
目線を合わせない…
あの…無口そうな…!?
お客さんから…!?
"えっ!?"
"どうゆうこと!?"
この状況が把握出来ないのは
"ナゼ!?"
母は、
喫茶店のマスターさんから、
父は、
母がウェイトレスとして勤める前からの
顔馴染みの常連のお客さんで、
とても真面目で仕事もよく頑張ってる
優しい良い人だよ。
と、
何故か、
そういう言葉を言われたそうです。
どうやら、
喫茶店のマスターさんが
キューピッド役で一躍担い、
そう話したらしいのですが、
当時の
母は、
父に想いも気持ちも無く
ただ、
お見舞いでいただいた御礼だけは
きちんと伝えなくてはと、
父に、
お見舞いの御礼だけを伝えて
去っていったそうです。
去っていく母に、
母に渡そうと思い準備してた
メロン2つと、
母の好きな花を、
母のあとを必死になって走り追いながら、
「想いも気持ちも無くても構わないから、」
「最後に
もう会うことはないので、」
「最後に思い出として残しておきたいので
指輪は今直ぐには用意してあげられないけれど、
このメロン2つと
好きな花を結婚前提に
受け取ってはもらえませんか?
一生幸せに大事にします。」
と、
最後に、
母に渡したそうです。
それが、
父から母への
勇気最大の一生懸命な
"プロポーズだったそうです。"
その後、
過ぎ去る季節と日々の中で
展開があり、
イロイロと、
その1つ1つのコトが
"キッカケと縁となり、"
父と母は
神奈川県で入籍した後、
私の母子手帳には、
神奈川と記載された記録と、
当時の若かかりし頃の両親の名と
当時の記録か記載されています。
私は母が20歳の年齢の時に誕生し、
その時の父の年齢は27歳と
私の母子手帳の始めのページには、
神奈川と記載された記録とともに、
当時の若かかりし頃の両親の名と
当時の記録か記載されています。
(私が誕生した場所は亡き両親の故郷です。)
【コチラの写真内容は始めの表紙ページではなく、
途中のページになります。】↓


当時の母は、
銭湯の帰りに父と一緒に
屋台のラーメンを食べて帰宅してたそうです。
父の当時住んでた場所の直ぐ近くは
父の顔馴染みの商店街の
喫茶店のマスターさんや
他のお店屋さん,店舗等など…,
隣接してあり、
当時,私が母のお腹の中にいて
その当時の身重だった母が
体調のすぐれなかった時は、
その隣接の商店街の皆様が
食べ物や、
母の様子をみに訪れては
笑い話しを聞かせて母のコトを笑わせてくれてたと、
母は懐かしそうな様子で
私に,その当時の話しを聞かせてくれました。
皆様が口々に帰り際に
母に言い残していった言葉は、
"母の体調や様子が心配だから、
でも自分は1日外で仕事で家を空けて
留守だから、"
"時間や都合の合う時で構わないから、"
"自分の代わりに
母の様子をみにいってあげてほしい、"
"母の好物のメロンとハッサクと、"
"何か軽食を届けてあげてほしい。"
と父に頼まれて、
代金は先に頂いてるから
安心してね。
と、
父の顔馴染みの幅の広さと
父の人柄を皆様が褒めてたと、
そういう話しも母は聞かせてくれました。
生まれてくる赤ちゃんが、
元気に生まれて
幸せに笑って優しい子になりますようにと。
体調の安定した日に
掃除でハリキリ
夕食の支度を早々と済ませ
八百屋さんからいただいたハッサクを食べて
手芸品店でベビー服の編み物と型を習い
その手芸品店さんで猫の刺繍の作り方も習い
生まれる前の私へと、
おくるみを編み
帽子を編み
靴下を編み
哺乳瓶カバーを編み
子鹿のバンビのベビー布団を用意しながら
父と2人で楽しみに待っててくれてたそうです。
父は私が誕生する前に
安産祈願で近隣の大仏様の場所まで
足を運んで御参りをして
安産のお守りを母に渡してくれたとも、
母から,その話しも聞かせてもらいました。
余談ですが、
学生時代の頃の私は、
音楽系の全国大会へと大会場所へと渡り
若かかりし頃の両親が降り立った
空港に足を踏みおろした時は
当時
その頃の私は
"言葉にならないくらい感動して、"
その時の空気や余韻が
今でも忘れられない
大事な思い出の1つとして
今でも宝物の思い出として残っています。
奈良での全国大会後に、
奈良の大仏を大会帰りに観光で観に行ったこと、
奈良の大仏様を目の前に
とても感動した覚えを今でも
その感動の思い出が残っているコト。
奈良の鹿さんと記念撮影にと、
一緒に撮影したコトや、
その前の年に全国大会で訪れた、
北海道へはじめて訪れた時、
当時の思い出の1つに
北海道の新千歳空港に降りたった時の
感動や、
その空港の公衆電話から、
沖縄で私の帰りを待ってた
当時の母や弟や妹へと、
公衆電話から電話をかけて
カードも10円も100円も直ぐに落ちて無くなり、
(私が学生時代の当時の頃は
"まだポケベルと公衆電話の時代でした。")
北海道から沖縄までの距離を
公衆電話での通話という面を通して
衝撃を受けて知ったコトも、
そういう思い出も、
北海道の知らない街まで
電車をはじめて乗り
降り立った街の
そのアイクリーム屋さんで
牛乳のアイクリームを食べて♪
モグモグと頬張りながら、
次は札幌の時計台を
全国大会の帰りに観光で訪れたのですが、
私が訪れた当時は時計台修復中で、
観光までは辿れず
そのまま
近くにあった当時のラーメン屋さんで、
味噌ラーメンを味わい、
(これ以上書くと長くなりそうなので、
"余談の話しは、"また今度何処かの記事で。)
─(先程の続きの話しへと戻ります。)─
私が誕生する数ヶ月前
私が誕生する前に両親は、
両親2人の故郷である沖縄へと
帰郷、
その後私が
低出生体重児として産声をあげ誕生。
(ブログのプロフィール欄にも記載してます。)
それから後、
2つ下の弟、
11歳年の離れた妹も誕生。
その幾数十年後、
月日が,
たくさん目の前から流れていった頃
両親は離婚しました。
─家族それぞれの選択として、─
ただ両親と私達家族は(弟や妹も含め)
ただ
そういう選択肢をしたという、
それだけのコトなのです。
普通のイロイロな中での
家族としての親子としての
そういうイロイロな普通な事情です。
でも、
それは傍目からみると
受け取りようと
人それぞれの価値観の捉え方ようですが
それは優しくはない
寂しい家族の風景だったのかもしれません。
そして、
その選択を
あの頃の私は
"親子として、"
"家族として、"
キョウダイの中で1番上に生まれた姉として、
勝手な責任感を
勝手に抱いてただけなのかも知れません。
両親が決めた選択を
"自分自身の意思で自由にではなく、"
両親が決めた選択を
"受け止め受け入れ呑み込みながら、"
そんな気持ちの中で
進むしか出来なかった背景と環境があり
そういうな流れと共に
母と
キョウダイ(当時中学生だった弟と
当時幼かった妹を)守り抜いて
当時の私は必死だった思い出しかありません。
色々な面での,
その何処にでもあるコトが、
今の時代や日々とは
ホンの少しだけ
"なにかの部分が優しくはなかったような
そんな風な"その時の色々な面での環境背景を見てたような
そんな風な記憶も移ろう中で薄い遠退く思い出の中で"、
私の記憶や,その思い出の中に残っています。"
きっと、
そういう風に映ってみえてたのかも知れませんが、
その何処にでもあるコト
そういう対に対して
風当たりも強く感じられたような
そんな気がしますし、
私には,そんな風にも映りみえていました。
(映り方も受け止め方も
捉え方も感じ方も
人それぞれ違いますが、)
複雑化な面や部分も変わらず残っているといえばいるような,
そんな、
今の新しい時代と日々の中、
─それでも新しい世の中。─
"当たり前ではない新しい日々。"
それぞれに等しく選択肢出来る自由もある。
それぞれの価値観の自由も
それぞれの意思を持てる自由がある。
その中から選ぶ選択出来る自由がある。
1人1人の選択が尊ばれ意思の中から
自由に考え選択するコトが出来る。
なんだかね、
私個人の中では,そう思うのです。
そういう流れの
"新しい風向きと価値観が生まれ始めているようにも…"
私自身は,何処かでか感じる部分も増して
"理由なき"
─"その何たるやの新しい景色や
新しい風向きの流れを
素直に感じられるのです。─
生前の母は、
その当時の疲弊しきっていた、
私に,よく,繰り返しこう話していました。
母は、
末期の治療と,その症状から、
メンタル的な部分が大きく変わり
以前の元気な頃の母とは違い
疲弊した疲れをひきづりながら、
仕事帰りに看病へときた私に
母は、
しきりに同じ話しばかりを繰り返してました。
「"自分自身の幸せを考えて
お願いだから、"」と、
当時の頃の私は、
今思い返してみますと、
"自分自身で"素直になれば良い部分を、"
ただ意固地に頑なに"窮屈に縛り"
─何処か,柔らかさのユトリも
持ててなかった─
そういう私自身がいたのかもしれません。
その当時の
その時の─私自身の心にも耳にも─
母の声は入ってはきませんでした。
疲弊が先にきて
母の小言は私の中で上の空でしか聞こえていなくて、
そんな小言を話し続けてばかりだった
当時の母に対して私は
─こう話しを始めて、─
"独りでも充分に幸せな生き方だし、
そういう幸せな選択肢だってある。
それの繰り返しの
亡き母との最後の月日と時間が流れ去っていきました。
「"独りでも充分に幸せな生き方だし、
そういう幸せな選択肢だってあるとか、
そんな寂しいコトを母さんに聞かせないで,"」
と、
母なりの想いを、
親だからこその想いを、
当時の私にぶつけてきました。
当時の私は、
母は,きっと末期の症状と
治療の薬の影響で、
意識やメンタルな部分が
ハッキリとした境い目が薄れて
母自身も自分が何を話してるのかを
分からなくなってるのだと、
それが最後の交わした会話になることも
その時の私には分かるハズもなく、
末期の症状と
治療の薬の影響なんだと
勝手にそう思い込み
思い込もうと
気持の中で悪あがきをして
母との最後の交わした会話の時に、
"これが最後になるわけない。"
"きっと明日だって、"
"会えるよね、母さん。"
それを、
(その頃の当時の様々な流れの中の時の刻みを)
信じたくない
受け止め受け入れ呑み込みたくない、
そう怖がり
気持ちに蓋をして
違うと思い込もうと
違うと信じ込もうと
"時"
"時間"
"その目の前の流れに"
抗おうとしてた不甲斐ない
情けない潔くない
とても弱い私の姿がそこにありました。
そして無理に,こう思い目を伏せてしまっていました。
明日だって
明日も,きっと、
母さんの説教じみた
会話の始まりが繰り返されて、
今の,この病室の場所で
母さんの時間は続くよね!?
きっと
そうだよね!?
当時の私は、
もっと素直になれていたら
私のコトを想い言って話してくれた
その母の想いに対して
当時の私自身は、
素直に答えず
"母の想いとは反する答えを"
ぶつけてしまったのです。
"そうだね、
ありがとう母さん。
わかったよ。
そういう選択肢だって
幸せに生きる道の1つと
始まりに繋がるかもしれないね。
母さん教えて聞かせてくれて
ありがとうね。
今の話し大事に留めておくね。"
たった,それだけの言葉を
素直に
当時の母に
当時の私自身は、
そう答えてあげられてたら
それだけで
良かったのかもしれない
母を安心させてあげれてたのかもしれない。
母の介護には協力無しだった
弟や妹は、
母が何も語れない状態になり始めた時に
初めて現れて
ドタバタと走りながら,やって来ました。
もう遠い過去のキョウダイと家族の話しです。
色々あった過去の出来事は
嬉しかった思い出以外は
それ以外は
私の中では思い出の中の1つになりつつあります。
別に良い人になりたいわけではなくて、
なりたかったワケでもなくて、
不甲斐ない自分自身に対して
今さらながらと思う部分も
今さらだから見えてきた部分も
今さらだから気が付いたコトも、
全部をひっくるめて
そう思うことばかりが溢れて増し
素直さに欠けてた
私自身の"思う選択肢など、"
その時は切り離して
置いといて、
最後の力を振り絞りながら
聞かせてくれた
誰よりも深い
母の気持ちや
私への想いに
心からの感謝を持ててたら
自分自身の意思だの
"選択肢の自由だの、"
今さら遅い余韻だけが尾となり
振り返る時に様々に交互に思いがよみがえり思うのです。
"そんな云々な固い,
がんじからめなモノを、"
その時だけは
いったん置いといて、
あの時の母に対して、
"もっと優しく素直に答えてあげられていたら、"
時折、
今も思い出す度に、
そういう、
あの時の
あの当時の母の言葉と想いと
当時の私自身の姿を思い出す時があります。
今振り替えってみると、
それが、
母と交わした会話の
最後となってしまったのですが。
今現在の私は、
年齢を重ねてく中で
幾つもの月日と季節を繰り返し
それは時にほろ苦くも感じたり
それが時に柔らかくもなり
そういうイロイロな日々の中で、
様々に思いが交差してあります。
あの当時とは違う
"私なりの新しい選択肢と、"
─"風向き変わりゆく中での、"─
"今の素直な選択肢の視野の幅も
多岐の価値観にも触れるコトもあり
"ホッと包まれてるような
優しい時間にも触れ感じる
気持ちの中の部分にある心地よさという
素直な私の今にも巡り会えたコトや、"
柔らかな今の時間の流れに任せながら
自然な想いで
気持ちを無理に飾る必要もなく
自分自身の心と気持ちに素直に優しく
ホンの少しだけ
そうなれたような気がしています。
それらが今の私自身の現在を、
彩り濃く深く豊かにして
"その日々1つ1つが
色々な面と向き方向の流れを
導いてくれているようにも感じます。"
今回の記事は
この辺で。