梅の花がほころぶ頃、皆様におかれましてはいかがお過ごしでしょうか。


みそひともじ(三十一文字)と聞いて、短歌よりも和歌が浮かぶ私は、和歌集と聞いたら「万葉集」よりも「古今和歌集」が思い浮かびます。


例えば、司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」をお読みの方からしたら、そこは万葉集じゃないのか?となるかもしれません。



実は、ここにもタイプの差が影響しているのです。

正岡子規は、俳句では月並俳句を否定して俳句革新につとめました。


すでに情況対応コミュニケーションを学んだことがある方は、ミスコミュニケーションが起きてるのでは?とお考えかもしれません。

その通りです、反応型の正岡子規からしたら形にこだわって「あーでもないこーでもない」と理屈こねくり回してる連中は理解できないでしょう。


反応型の地雷の扉は「思考」です。

信念型の入り口の扉は「思考」でしたね、だから簡単なことから難しいことまで思考を使って「あーでもないこーでもない」と検討するのは大好き。

価値観を大事にして長く続いた伝統の意味や意義を見ている信念型が好むことが、反応型の子規にとっては大地雷。


文明開化の時代で、新しい概念が入ってきてるのに昔のことを有り難がってる姿は滑稽にも映るだろうし、理解できないのもむべなるかなって感じです。



また、和歌を語る上で受験古文の時に聞いた「表風景 裏人事」と言う言葉が思い起こされます。


風景のことを歌っている裏っ側に、人の心が歌われていて何が歌われてるかを問われたりします。


信念型の入り口の扉は「思考」で、思考の扉が開かれると次に開くのは感情の扉です。

風景で形を整える作業(思考)を行うことで開いた感情が歌に詠まれている。


ウェア理論にのっとって古今和歌集を解釈すると、この時代は芸術分野で信念型が輝いていた時代なんですね。



信念型は、自分の中の考えを他の人に意見として話す過程で考えがまとまって、それをまた人に話す一連の流れの中で考えをどんどん明確にしていきます。


物事に対しての、「こうあるべき」が明確になる形で信念型の影響が多くの分野に残っていく。

あくまでも参考程度にして行くなら良いけれど、ルールや聖典化してしまうと、後の人たちがこうあるべきに縛られるようになってしまい、組織や学問分野を変化に弱い硬直したものにしてしまう恐れも含んでいる。

月並俳句なんかは、その悪い例ですね。

その分野に入ってしまうと、代々のこうあるべきの解釈で本来の姿が見えにくくなってしまう時に、聖典に異議を唱えにくくなると硬直していくんでしょうね。



世阿弥の「風姿花伝」や柳生宗矩の「兵法家伝書」などの様に、こうあるべきが当時の姿に近い形で残っていると、他の人のフィルターを通さずに本来のこうあるべきの美しさに触れることが可能です。


他の人の先入観や思い込みで歪まされてない姿に触れる大切さは、日常の中でも根拠を探すことでデマに流されにくくなると言った形でも活用できますね。


受験古文から、古典を読む様になったきっかけが2つあります。

1つが、これを教えてもらったこと。

活用系の種類、助動詞の活用の形と接続、格助詞について、これを知ることで文章が読める。

もう1つは、新潮日本古典集成。
原文に、注釈と本文の意味が通じにくいところには現代語訳がピンク色でルビのように添えられている。
入門で読むのにとっても便利なシリーズでした。




歴史って勉強しても意味ないって思う人は、入り口の扉が思考以外か、入り口は思考でも歴史の意義を理解していなんでしょうね。


検証され続けることで、技術や理論はアップデートされて行く。検証の積み重ねが歴史なのになぁ。



本当は、梅の写真を撮ったから古今和歌集の47番と48番の歌について書きたかったのに、ズレにズレてしまった

梅の香りについての、方向性が真逆な歌なんですが。

・過去に生きるか、未来志向かとか

・人生の基本的立場の違い

などが透けて見えて面白いです。



とりとめも無くなりそうなので、ここまでで終わります。




CHEESE CAKE「音の無い世界のうさぎ」を聴きながら