今日の題材は、信念型のファンタジーが満載の漫画「夜王」です。
漫画自体から考察をしていくと、原作の倉科遼さんが行動型+信念型で、作画の井上紀良さんは思考型でした。
ホストを題材にした漫画で、歌舞伎町の夜の店の王になるのが目標のお話です。
ヤングジャンプ連載当時に、同棲していた彼女が実家から持ち帰って来てたのを、彼女と話を合わせる+暇つぶしのために読み始めました。
僕は、楽しい事をする時には「完全であれ」のプロセス脚本「〜までは」の影響で、面白く思えない漫画でも全部読まなくては行けませんでした。
だから、「面白く思えない漫画を読み終えるまでは、好きな漫画は読んではいけない」と言うような感覚がありました。
でも、面白く思えない漫画を読んでる事を「嫌だ」って感じる気持ちも、同時に出てくるんです。
ただ、それを態度に出したりしてはいけない「強くあれ」の感覚で、嫌なら読むのやめたら良いと言う行動は選ばないで、読み続けていました。
これは、信念型のドライバー(プロセス脚本の生き方に駆り立てるもの)「完全であれ」=「強くあれ」の感覚でしょう。
そうすると、読みたくない漫画も好きな漫画を読むために努力しながらプロセス脚本の「一生懸命努力せよ」で、漫画を読んでいました。
こんな感じで、自分の適応タイプのエネルギーをフル活用して漫画を読んでいたんです。
余談ですが、信念型の「完全であれ」=「強くあれ」は。
思考型のドライバー「完全であれ」+「強くあれ」と似ていますが、「=」と「+」の違いはこんなイメージでしょうか。
「完全であれ」+「強くあれ」は、完全であることに対して強くある。
完全であろうとする心の動きを、強くある事が助けてる補っているイメージです。
「人という字は、片方の人が片方の人を支えてる」って、ドラマの主人公の言葉で説明すると、支えられているのが「完全であれ」で支えてる方が「強くあれ」ですね。
それに対して、信念型の「完全であれ」=「強くあれ」は、完全であろうとする事と強くあろうとする事がイコールなんです。
完全な状態であれば強い状態だし、完全でない状態ならば強くもない状態なんです。
小学生が宿題をやっていて、「終わった」と親の所に持って来ても、宿題自体が終わっててもその時の態度が机に頬杖ついてたり、鼻ほじりながらしていたら「ダメでしょ」って言う。
「宿題できてヨシ」では無くて、「宿題している最中の態度がダメなら、宿題を終わらせても意味がない」そんな姿勢が、「完全であれ」=「強くあれ」です。
余談はここまでにして。
当時、嫌いな漫画を読み続ける事にも妥協しなかった僕が読んでいた中の1つが「夜王」なんですが心理学の観点から一言で表現すると「夜王」は、信念型ファンタジー漫画です。
こうあるべきって信念型の姿勢を、主人公が貫くと周りが心を打たれて変化して、その変化の結果が主人公に良い働きになって、その良い流れが周りにも影響を与える。
エピソードごとに、上にあげたサイクルが回る事で話が展開していきます。
僕の中の親からもらった信念型の部分は、読みながら満足しているんですが、反応型と感情型の彼女からすると「何でこんな漫画読んでるの?」って感想でした。
「説教臭いし、こんなこと現実に起こるわけないじゃん❗️」と、僕が読んでいるといつも隣でブツブツ言っていたのを覚えています。
これが、適応タイプの感覚の差ですね。
Pの自我状態から発せられる言葉は、反応型に拒否反応を起こさせる。
それがCP(「〜しなければならぬ」とか「〜するべき」)から発せられていたら、他のタイプでも拒否反応かも知れないけど、Pの雰囲気だけで彼女は嫌がってました。
どの漫画を読むか、それ一つとってもそこに適応タイプの影響が現れていると思います。
先程触れた物語の展開の仕組みで、忘れてはいけない点は、主人公に感情型が混じっていること。
言ってる事は信念型、信念型の考えの奥には行動型があって、でも自分以外の人優先する所には感情型があって。
感情型の部分が出てきて物語が展開して、でも気持ちだけで無く信念型と意見に基づいた感情型の人間関係の築き方(ぶつかり方)で、周りの人は「気持ち(自我状態はC)」と言うより意気に感じて(姿勢に打たれて=自我状態はP)主人公の進むべき道が切り開かれていく、養育者の信念型と感情型の人たちの影響が原作者の中に入っているのがうかがえます。
幼少期の環境から、自分本来のタイプとは別のタイプの感覚を取り入れた部分について、僕の経験を含めて次回以降に掘り下げていきたいと思います。
ナイス橋本「キンミライ。」を聴きながら