本来、人々は
互いに癒し合う関係にあり、
癒しは赦しを意味します。
 
 
奇跡のコースという本の中には
「癒されたセラピスト」という言葉と
「癒されていないセラピスト」という
2つの言葉が登場します。
 
それでは、
「癒されたセラピスト」と
「癒されていないセラピスト」
この2つの言葉の本質的な違いは
何でしょうか?
 
まず、「癒されたセラピスト」は
他者ではなく、
自分の心を癒すことを
重視します。
 
つまり、
相手という鏡と向き合うことで
自分自身の心の内面と
向き合います。
 
他者という鏡に映る
劣等感、自己無価値感、
自分自身への憎悪、
愛情飢餓感、欠乏感、
孤独感という
間違った自分自身のイメージを
存在しない幻想として赦します。
 
そして、
自分の力で相手を赦そうとする
(癒そうとしてする)のではなく、
自分の心のなかにある
聖霊の力で
 
(自分も相手も神の愛のなかで
    共にひとつであり、
    愛に飢えることも、
    傷つくことも、
    死ぬこともありえない
    完全無欠な神の愛
    そのものであり、
    光り輝く霊であると知っている
    心の部分によって)
 
赦そうとし、癒そうとします。
 
更には相手を
 
   「愛に飢え、傷つき、
    死ぬことさえも可能な
    不完全な存在、
    癒されなければならない存在」
 
として見るのではなく、
 
内なる聖霊の愛のなかで相手を
 
  「喜びと幸福に満ち溢れ、
   傷つくことも
   死ぬこともありえない、
   神の愛そのものであり、
   光に満ち溢れた
   完全無欠な存在」
 
として見ようとします。
 
たとえば
自分の目の前に
病気の人がいたとして、
その人が感じている苦痛や悲しみに
共感し、相手を労わり、気遣いながらも、
 
心の中にある聖霊の愛の光で
 
  「相手の本当の姿は
    愛に飢えることも
   傷つくことも、
   死ぬこともありえない
   神の愛そのものであり、
   光り輝く完全無欠で
   神聖な存在なのだ」
 
と思い出し、
相手という鏡の中に映る病気という
幻想を赦すことによって
自分の心のなかにある
 
  「自分は傷つくことも、
     死ぬことも
     病気になることもあり得る
     一個の分離した肉体なのだ」
 
という自分自身についての
誤った信念を赦します。
 
あるいは、自分の目の前に
自分自身のことが嫌いで嫌いでたまらず、
自分で自分の存在を愛することができず、
自分で自分を赦すことが難しいと感じ、
自分に対しても、他者に対しても
無条件の愛を表現できない人が居たとして、
その人が抱えている自己嫌悪感や
自分自身への憎悪や自己無価値感や
愛情飢餓感、欠乏感、孤独感
などの悲しみに共感しつつも、
 
心のなかにある聖霊の愛の光で
 
   「相手の本当の姿は
    愛に飢えることも、
    傷つくことも、死ぬこともありえない、
    神の愛そのものであり、
    無条件に自分の存在を愛し、
    赦す無限の力が宿っており、
    彼はその愛を世界に広げることができる
    光り輝く完全無欠で神聖な存在なのだ。」
 
と思い出し、
相手という鏡のなかに映る
自己嫌悪感、自分自身への憎悪、
自己無価値感、愛情飢餓感
欠乏感、孤独感
という幻想を赦すことによって、
自分の心のなかにある
 
   「自分は神の愛に飢えた
    孤独な存在であり、
    神の愛によって
    自分の存在を無条件に赦し、
    愛することが出来ない
    無力な存在なのだ。」
 
という自分自身についての
誤った信念を赦します。
 
こうして、
セラピストは他者という鏡に映る
自分自身の間違ったイメージを
赦すことによって、
自分の心のなかにある
罪悪感を赦し、
癒し、取り消します。
 
他者に赦しを与えることと
自分に赦しを受け取ることは
真理においては
ひとつだからです。
 
相手に与えた赦しは
相手が赦しを受け取る心の準備ができた時に
(時には来世までかかることもありますが)
受け取られるでしょう。
 
でも、自分が相手に与えた赦しが
何らかの影響を及ぼすかもしれない
という事実について
私たちが気にかけることでは
ありません。
 
赦しは何よりも私たちの心を尊び、
私たちの心から自分自身についての
間違ったイメージと
無意識の罪悪感を取り消し、
私たちの心のなかにある
神の愛を目覚めさせるからです。
 
つまり、「癒されたセラピスト」とは
 
   「何よりも、
    誰よりも、
    癒しを本当に必要としているのは
    自分自身の心のみであり、
    自分は相手という鏡に映る
    自分自身についての
    誤ったイメージや
    信念を赦すことで
    自分の心のなかにある
    無意識の罪悪感を赦し、
    取り消しているのだ。」
 
という真実を受け入れ、
自分自身の心に
赦しという光り輝く贈り物を
受け取ることができる人のことなのです。
 
更に癒されたセラピストが
絶対に忘れてはいけない真実は
 
  「自分の目の前にいる相手は
   自分の心を映し出す鏡であり、
   自分の心のなかにあるものの象徴であり、
   自分は相手という鏡に映る自分自身の
  イメージを赦すことで
  自分の内面と向き合い、
  自分の心のなかにある無意識の罪悪感を
  取り消し、赦しているだけなのだ。」
 
という真実、
ただ、それのみなのです。
 
逆に「癒されていないセラピスト」とは
 
  「誰よりも本当に
    癒しを必要としているのは
    自分自身の心なのだ。」
 
という真実と、
 
     「自分の目の前にいる相手は
      自分の心を映し出す鏡であり、
      自分の心のなかにあるものの象徴であり、
      自分は相手という鏡に映る
      自分自身についての誤った信念や
      イメージを赦すことで
      自分の心のなかにある
      無意識の罪悪感を取り消し、
      赦すことができるのだ。」
   
という真実を
まだ、受け入れていない人のことです。
 
 
しかし、いずれ、
誰もがこの真実を受け入れ、
自分自身の心のなかにある
罪悪感を赦し、
内なる神の愛で世界を優しく照らす
「癒されたセラピスト」として
成長してゆくでしょう。
 
このように私たちは
皆、患者であり、
セラピストであり、
互いに癒し合う関係のなかにあるのですが、
私たちの心のなかにいて、
私たちが神と同質の愛であり、
神と一体の光り輝く霊であるという
真実を完璧に知っている『聖霊』は
この世界が提供できるどのような
癒しもしのぐことができる力を持つ
最高のセラピストなのです。
 
(続く)