私たちは自分の心のなかにある
 
罪悪感を直視することが
 
怖くて、怖くてたまらないと感じ、
 
その無意識の罪悪感を
 
自分の心の外側に投影することによって
 
まったく存在しない洞窟の世界と
 
洞窟の壁に映る幻想の影を
 
作り上げたのですが、
 
 
 
実は私たちが本当に怖いと思っているのは、
 
洞窟でも、洞窟の壁に映る幻想の影でも、
 
闇でも、死でも、牢獄でも、
 
無意識の罪悪感でもありません。
 
 
 
私たちが本当に怖いと感じているのは
 
天国であり、霊であり、
 
光であり、愛であり、
 
永遠の生命であり、自由であり、
 
神の子キリストとしての無罪性です。
 
 
 
つまり、私たちは
 
洞窟の外にある
 
 
永遠で無限の喜び、
 
永遠で無限の幸福、
 
永遠で無限の安らぎ
 
永遠で無限の愛、
 
永遠で無限の自由、
 
永遠で無限の優しさ、
 
永遠で無限の強さ、
 
永遠で無限の純粋さ、
 
永遠で無限の生命、
 
永遠で無限の光に満ち溢れた 
 
霊的な世界を
 
恐れているのです。
 
 
 
私たちは闇ではなく、
 
光を恐れています。
 
 
 
たとえば、いつも
 
自分のことが大嫌いだと感じている人が、
 
自分の嫌っている自分自身の嫌なところや
 
自分自身への憎悪を
 
誰か他の人に投影することで、
 
他者を断罪し、攻撃している場合、
 
 
 
彼は本当は相手という鏡に映る
 
自分自身による
 
自分自身への憎悪の想念を
 
怖いと感じているのではなく、
 
 
 
その自分自身への憎悪という
 
幻想の影に隠されている
 
内なる光、
 
神の子キリストとしての
 
自分の罪のなさ、
 
自分のことも他者のことも
 
ひとつのものとして
 
無条件に愛する神の愛を
 
恐れているのです。
 
 
 
同じように
 
自分自身のことが嫌いな人で
 
その自分自身への憎悪を
 
他者ではなく、自分自身に投影することで、
 
自分は良いところが何もない、
 
無価値で劣った存在だと感じ、
 
自分は不完全で愛に飢えた
 
寂しい存在だと感じ、
 
その劣等感や自己無価値感の想念によって、
 
自分で自分を蔑ろにし、傷つけている場合、
 
 
 
彼は本当は自分という鏡に映る
 
劣等感や自己無価値感、
 
欠乏感、自分自身への憎悪の想念を
 
恐れているのではなく、
 
 
 
その劣等感という幻想の影に隠れている
 
内なる光、
 
神の子キリストとしての
 
自分の罪のなさ、
 
完全無欠性、
 
自分は神の愛で満たされており、
 
その内なる神の愛で
 
自分のことも他者のことも
 
同じひとつのものとして
 
無条件に愛することができるのだという
 
真実を恐れているのです。
 
 
 
そして、私たちは
 
自分が病気であるという幻想を
 
見ることがありますが、
 
病気そのものは
 
 
 
  「自分は傷つくことも、
 
    苦しむことも、
 
    死ぬこともあり得る
 
    一個の分離した肉体である。」
 
 
 
という信念が投影された夢であり、
 
私たちが本当に恐れているのは
 
 
 
「自分は脆弱で弱くて傷つきやすい
 
一個の分離した肉体である」
 
 
 
という信念そのものではなく、
 
その信念の影に隠れている、
 
 
 
  『自分は傷つくことも、
 
   苦しむことも、
 
   死ぬこともあり得ない、
 
   神と一体の光り輝く霊であり、
 
   永遠の生命そのものであり、
 
  どこまでも無限に広がる
 
  神の愛そのものである』
 
 
 
  という真実です。
 
 
 
では
 
なぜ私たちは
 
闇ではなく、
 
光を恐れるのでしょうか?
 
 
 
それは、私たちの心のなかにある
 
神の愛が
 
私たちが日常的に
 
これが自分だと思っている
 
自分だけの特別な自己や
 
自分だけの特別な心や
 
自分だけの特別な肉体を
 
すべて光のなかへと
 
跡形もなく、
 
消し去ってしまうと感じているからです。
 
 
 
洞窟の外の光は
 
私たちの心のなかにあります。
 
 
 
洞窟の外の光は
 
神の愛であり、
 
愛にはすべてのものと
 
ひとつになって溶け合い、
 
あらゆるものを包み込み、
 
すべてを光の渦の中へと
 
誘うという性質があります。
 
 
 
だから、
 
私たちは
 
心の底から
 
内なる神の愛を
 
恐れているのです。
 
 
(続く)