人が現場を見るということは、気づくということであって、個々の経験に基づくのである。
だから、同じ現場をみていても、見えている事実が違うことは当たり前なのです。


太田:いや、だから、真実と事実とね、どっちなんだ。心霊現象なんかも、おれはそういうものを信じないけれども、恐怖は事実ですよね。何かが見えちゃうって思い込んでいる人が、本気で恐怖を感じている体験、これは心霊体験は実際の体験なんですよね。
高木:実際我々の普通の世界っていうのは、心霊現象が怖いっていうのと同じような意味で、いろんなことが好きだったり嫌いだったり、「意味の世界」を生きているわけです。で、やっぱりね、裁判なんかが難しいのは、でも「刺して殺したのは誰か」なんですよ。
太田:物理的なことだよね。
高木:それはね、多分我々あまり慣れていないですよ。もともと頭がそういうふうに出来ていない。とすら言えるので。
太田:でも、逆にそういう性質を持っていなきゃ、人間って生きていけないじゃないですか。明日もきっと楽しいとかっていうことを漠然と思えなかったら、こんな世の中生きていけるわけない。

p128
このように、「見る」ということは、「気づく」ということであり、「気づく」べきものは、見るべき形ではなく、
むしろ注目すべきこと(事態)なのである。私たちはコトを見ているのであって、モノを見ているのではない。
そして、コトを見るということは、コトに関する理論、信念、経験のすべてが全体として関与しており、知るべきことの
問題意識や、やるべきことの目標意識に大きく左右されることであるということを忘れるわけにはいかないのである。


p141
「子どもと遊べる者だけが、子どもに何か教えられる」というスタール夫人の言葉には、
深い意味がある。自分が子どものようになることが、子どもを教育する第一の条件である。
しかしこれは、子どもをらしく装ったり、ご機嫌取りのおしゃべりをすることを意味するものではない。
どちらにも、子どもたちにたちまち見破られて嫌われる。
これは、子ども自身が生活をとらえるのとは全く同様な無邪気さで子どもを取り扱い、子どもにも、
大人に示すのと同様の思いやりと、細やかな感情と信頼を示せということである。

p185-186
家庭は、子どもの肉体を入れる家であるだけでなく、精神の家に戻らなければならない。しかし、このような家をつくるためには、次の子どもが家からつくられる、子どもは家庭に帰さなければならない。学校と、学校のための家庭での仕事は、いまのところ、子どもの生活の最大の部分を閉めているが、そういうことではなく、学校は子どもの生活の小部分を担当し、家庭がその大部分を引き受けるのでなければならない。