<わたし>はどこにあるのか | ささやかだけれど、役に立つこと

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読書、映画、時事ニュース等に関して感じたことをメモしています。忘れっぽいので、1年後にはきっと驚きをもって自分のブログを読めるはず。

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義(マイケル・S. ガザニガ)、という本を読んだ。

 

 

著者は、脳梁と前交連を切断して左右の脳の連絡を絶った、いわゆる分離脳患者に関する専門家。(重度のてんかん患者が通常の治療では症状の改善が見込まれない際に、以前脳梁の切断が行われていた)

 

この訳書のタイトルに内容を少し勘違いしてしまった。。。原書のサブタイトルは「自由意志と脳科学」。たしかに「私はどこにあるのか」というのはテーマの1つであるものの最も重要な論点という訳でもなかった。加えて、最新の脳科学では意識をどのように定義・解釈しているのか、というような議論はなかった。

 

脳科学における最近の議論を前提とすると、ナイーブな自由意志という概念はその基礎がかなり危うい状況に陥っており、更にその自由意志を前提とした「人間は自分の選択と行動の責任を負うべき・負い得る」という半ば自明と思われていた事柄も再考すべきかもしれない云々・・という話が後半続く。この辺りは重要とは思うけれどやや眠くなってくる。

 

前半では脳科学の歴史やガザニガの分離脳患者に関する研究成果が示されるが、中でも「私はどこにあるのか」に最も関係ありそうな点はガザニガが提唱するインタープリター・モジュール。

 

インタープリター・モジュールとは、主に左脳に存在すると考えられている情報統合プロセスのこと。脳内にそのモジュールに対応する部位がある訳ではなく、左脳全体が持つダイナミックな機能の1つを指し示していると思われる(多分)。良く分からない。

 

本書で取り上げられた以下の具体例にもみられる通り、インタープリター・モジュールは意識に上った断片的な情報をまとめあげて合理的な(無矛盾)なストーリーを作り上げようとする。

  • 左右の脳が物理的に切断された分離脳患者の右脳に「男性が炎に飲み込まれる映像」を見せると、発話機能を持つ左脳が「白い閃光が見えたが何かは分からなかった」「理由は不明だが恐ろしい。ガザニガ先生のことを普段は好きだが今は怖く感じられる」と答えた
  • 分離脳患者の右脳に雪景色、左脳にニワトリの足の絵を見せて、それぞれに関連する絵を選んでもらうと、左手(右脳)はショベル、右手(左脳)はニワトリを選んだ。ショベルの絵を選んだ理由を尋ねると、発話機能のある左脳が「ショベルを選んだのはニワトリ小屋の掃除に必要だから」と答えた。(左脳は、最初に右脳が雪景色の絵を選び、2回目で雪に関連するショベルを選んだことを知らない)

雑に表現すれば、インタープリター・モジュールはでたらめ話をでっち上げて意識に信じ込ませることができる。或いは、意識にとってはそのでたらめ話が正に現実そのものとして「感じられている」。

 

上の1番目の話を読んでいて辛いのは、患者が「怖い感じがするけれど理由は分かりません」とは言わないことだ。2番目でも「なぜショベルを選んだのか分かりません」とは答えない。本人たちに無理やり話を作っている認識は全くなく、強いリアリティを持って「ガザニガ先生が怖い」或いは「ニワトリ小屋の掃除に必要だからショベルを選んだ」と感じている。

 

つまり、分離脳患者でない人たちも本質的には同じ状況下にあり、常にインタープリター・モジュールが作るでたらめ話を信じてしまっている可能性があるし、それがでっち上げだと疑ってみることは非常に難しいということだ。

 

著者によると、インタープリター・モジュールは意識に上る断片的な情報を元にほぼ「自動的に」話を作ろうとする。他に未知の情報があるかもしれない、とかこれは不自然な話かなと逡巡することはない。たとえば、脳の障害によって自分の腕の情報がインタープリター・モジュールに伝達されない患者の場合、他人が患者の腕を顔の前まで持ち上げて見せても「この腕は自分の腕ではない」と言い張る(或いはそう感じられている)。

 

更に著者は、「自分自身」という感覚すらもインタープリター・モジュールが作り出したお話に過ぎないという。ただ、もしそうだとしたら、インタープリター・モジュールが作り出した自分自身という感覚を「感じている」主体はあるのだろうか?