ささやかだけれど、役に立つこと

ささやかだけれど、役に立つこと

読書、映画、時事ニュース等に関して感じたことをメモしています。忘れっぽいので、1年後にはきっと驚きをもって自分のブログを読めるはず。

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近藤誠著の「がんより怖いがん治療」(2014)を読んだ。

この本では著者の提唱するがんもどき理論そのものの解説よりも、慶応医学部放射線科在籍時に遭遇した様々な出来事の方に重点が置かれている。外科部長との確執、放射線科教授選の裏話や放射線科に受診しに来た患者を他科に取られた話など、読んでいて興味が尽きない。

 

医者になりたての頃は殆どノンポリだったと振り返っている点は意外だった。親が開業医だったとか性格が会社組織に合わないと感じていたとか、そもそも医学部入学を選択した経緯も殆ど消去法だったようだ。

 

他に面白いと思ったのは、著者が慶応医学部で過ごした41年の間にあからさまな嫌がらせなどを受けていなかったことだ。親しくしていた同僚・先輩・後輩たちがよそよそしくなるとか、医大の主要なポジションから外されるなどの憂き目には会っているが、基本的には人として接してもらっていたようだ。他の医科大で教授に逆らった医師などは、研究室から机を撤去されたりするなどもっと露骨なことが起こるらしい。

 

著者は放射線治療医だったが、現在は専門医資格を返上している。というのも、自身が20年以上前に放射線治療を行った患者がここ数年の間に放射線誘発がんで亡くなるケースが何件か確認されたことがショックだったようだ。がんもどき理論&がん放置療法に立ち帰れば、そもそも放射線治療も不要との理解に至ったらしい。

注意:以下、ネタバレの内容が含まれます。

 

以前から楽しみにしていたザ・シェイプ・オブ・ウォーターを観てきた。デル・トロ監督、アカデミー賞作品賞&監督賞その他受賞おめでとうございます。

 

想像していたよりもテンポ良く物語が進んでいく印象を受けた。主人公のイライザと半魚人の関係がもう少しじっくり描かれるのかと思っていたが、結構あっさり信頼関係が築かれたのがやや意外だった。また、中盤イライザと半魚人が恋愛関係に突入するが、それもちょっと唐突だったような。。まあ二人とも大人同士だし(?)、冗長な駆け引きは不要ということか。

 

次に意外だったのは、半魚人は一貫して半魚人だった、ということ。人間の女性と結ばれるからには、もう少し人間的な要素が描かれるかなと思ったけれど、想像以上にクリーチャーのままだった。猫を頭から齧っちゃうような野生を示すこともあるので、ラブシーンも感動的というよりはなんとなくハラハラしてしまった。

 

他に良かったのは、セキュリティ担当のストリックランドを演じたマイケル・シャノン。上司からの評価(脅迫?)、自分の野心、夫&父親としての役割など、多方面からのストレスに晒されていて悪役ながら同情してしまった。左手の小指と薬指が腐って黒く変色していく様が、彼の追い詰められていく姿と重なって、同じような立場にある人は性別によらず胸を締め付けられる思いになること必死だと思う。

 

観た後になって感じたのは、主要な登場人物が皆それぞれ崖っぷちに立たされていてキツイなあ、ということ。半魚人は南米から無理やり連れて来られた上に明日にも解剖されそうなので、文字通り生死の危険に晒されている。イライザは過酷な生い立ちと失語症のために単調で孤独な日々に閉じ込められている。イライザの隣人ジャイルズもポップアート専門の画家として時流に取り残されていく不安に苦しみ、また60年代米国でLGBTとしてパートナーを見つけることの困難に見舞われている。研究施設で働く研究者であると同時にソ連のスパイでもあるホフステトラー博士は、半魚人脱出を手助けしたために米ソ双方から疑いの目を向けられる。ストリックランドも同じく既に見た通り。

 

個人と国家システムの利害が衝突する際に、システム側に立つ人間も含めて結局全員が辛い目に遭うという典型的でかつ悲惨な構造が枠組みとしてあるが、本作はおとぎ話なので半魚人とイライザは幸せになれて良かったね、というふうに物語を結んでいる。この点はパンズ・ラビリンスとはちょっと趣が異なるかなと思った。個人的にはパンス・ラビリンスのエンディングの方が好きだけれど、本作の方が物語としては力強いかもしれない。

 

率直に言って以前読んだ同じ著者の本「あなたの知らない脳──意識は傍観者である」の方が数段面白かったと思う。

 

本著はそもそもテレビ番組を下敷きにしていることから、各テーマの議論が深まり面白くなってくる前に次のテーマに移らざるを得ず、また各テーマで行われる議論が焦点を結ぶようなメタ・テーマもないため、全体として散漫とした印象を与ているように思われる。

 

個人的には第6章「私たちはなにものになるのか?」の前半が最も興味深かった。たとえば人工内耳や人工網膜等では、デバイスが伝える刺激が本来の正常な感覚器官が脳に伝えていた情報と同じである必要がない。脳にとっては全く未知のノイズのような刺激を与えたとしても、脳は刺激のパターンを解析しフィードバックされた情報との照合を経由して刺激から情報を抽出することができる。

 

以前、米軍に属する研究所が失明した負傷兵の脳に電極を刺して視力の回復を図る、という番組を見たことがあり、脳にとってはある意味デタラメな電気的刺激を脳に与えてなぜ見られるようになるのか全く理解できなかったが、本著では正にその点が議論されていた。脳は刺激が与えられ、その刺激に関するフィードバックが得られれば、それが意味するものを自発的に解釈できるようになるのだ。

 

他には、情報とそれを取得する感覚器官の対応関係は必ずしも一意に決まっているわけではない、という点が興味深かった。通常は眼球から得られた可視光線に関する刺激を視覚情報として処理しているが、カメラで捉えた情報を味覚・触覚・聴覚器官等を経由して脳に伝えても人はある意味目が見えるようになる(感覚代行)。

 

今見えているように見えないなら、それは見えているとは云えない、と考える人がいるかもしれないが、今見えているこの見え方もまた数ある見え方のうちの1つに過ぎず、何か絶対的な必然性があるわけではない。結局、脳は光の波長と振幅に関する情報が得られれば良いわけで、それがどのような経路で取得されているかは重要ではないのだ。