ところで今更だけど、今は躁うつ病という呼び方はあまりされていなくて、双極性障害という言葉が使われているのだけど、
私は使い慣れた言葉なので、躁うつ病という言葉を使ってこのまま書いていく。
ここで簡単に時間的経緯を整理しておく。
一度目の発症。。。10年前 旦那が台中で会社員として働いていた時。私と知り合う前なので、経過やその時の様子など詳しくは知らない。
二度目の発症。。。去年の9月末。台中の家で、フリーランサーとして仕事をしていた時。
三度目の発症。。。今年の2月末。今回のこと。
私の言う発症というのは、躁状態が現れた時期のことで、それ以前に鬱の時期もあったので、医学的に言う発症時期ではないのだと思う。
ただ、旦那の場合、鬱状態の時は症状がそれほど明確でなく、躁状態の時のほうが症状が目に見えてはっきりわかるので、発症時期、と言わせてもらう。
また、旦那の話では、中学生ころから鬱状態であったという。あるいは、もともとうつ病だったのが、家族が気づかず放っておいたら躁うつ病になったのかもしれない。
三度目の発症、つまり今回のことについて書く。
今年の正月、日本に帰り、私の実家に三週間くらい寝泊りした。
父も母も、私たちによくしてくれたが、旦那が鬱になるような原因がいくつかあった。
父と母は、おととし退職し、それまで都市のマンションに住んでいたのだが、
退職をきっかけに田舎暮らしを始め、一戸建てに移り住んだ。
私たちは今回その一戸建てに泊まったのだが、とにかく寒かった。
それまで住んでいたマンションより、ずっとずっと寒かった。
たぶん防熱材を使ってないのだろう。
それでも両親はストーブやこたつ、布団も厚めのものを用意してくれていた。
ただ、ずっと台湾で育ってきた旦那にとって、その寒さは本当に想像を超えるものだったらしい。
また、私たちは今回リビングに接した一階の部屋に寝泊りしたのだが、
そこは防音がまったくなっていないので、リビングにいる父や母の足音、テレビの音、台所で料理をする音などが全部
聞こえてくる状態だった。また、今回ちょうど私たちが滞在したときに、母がうちの庭をうろついていた野良猫二匹を保護し、
リビングのケージに入れていた。その猫たちも、朝六時くらいになると騒ぎだし、その音も全部聞こえてきた。
私の父も40年会社員をしていたおかげで、ものすごい規則的な生活を送っており、いまだに毎朝6時すぎには起きて、
自分で朝ごはんを作って先に一人で食べる、という生活を送っていた。その生活音も、全部筒抜けだった。
旦那は、そのことで睡眠不足に陥った。
結局私の実家に滞在中、旦那はむっつりとして黙り込み、ひたすらゲームをして時間をつぶしたりしていた。
それから、私たちの部屋には鍵がなく、父や母は、軽くノックはしてくれるのだが、間をあけずすぐにドアを開けるということが何度かあった。
そして、私にこう言った。
「日本に移住して、最初数か月か一年くらい〇〇(私の名前)の両親のところにお世話になる予定だったけど、
ここは無理だよ。寒すぎるし、音はうるさいし、プライバシーがまったくない。」
その時、私はちゃんと旦那の声に耳を傾けるべきだったのだ。
でも、私はそうしなかった。
日本に移住して、最初から二人だけで住むのは経済的な不安が大きすぎたし、
久し振りに日本に帰ってきて、少なくとも半年くらいは両親と一緒に住んで、何かしら両親に恩返しをしたいという
気持ちがあったからだ。
だから、旦那に感情的に反論した。
結局最終的には私も実家の部屋にいて常にリビングや台所の音が聞こえることに嫌気がさし、
二人で最初からどこか別の場所に住める方法を模索しよう、と旦那に言った。
しかし、旦那は台湾に帰ってきてからも、常にやる気がない状態が続いていた。
漫画を見るか、ドラマを見るか。
日本語もほとんど勉強しなかったし、一人でぼーっとしている時間が多かった。眠っている時間もやたら長かった。
今思えば、すでにあれが鬱状態だったのだ。
いや、私にだって、鬱状態だという認識くらいあった。
だけど、それを何か病的なことだとは考えていなかった。
誰にでも鬱っぽい時くらいあるよね、放っておけば治るよね。くらいに考えていたのだ。
なんて甘い認識だったのだろう。
そして、やる気のない旦那に対してイライラしたり、怒ったりした。
私の一つ一つの行動が、躁うつ病への理解のなさが、旦那を躁状態へと駆りたてたのだと思う。
一週間前の日曜日だった。
旦那は突然5時に起き、それから友達とバスケをしに行く、といって家を出た。
そのあと、すごく陽気な調子で帰ってきて、そのあと友達とおしゃべりをしに出掛けた。
そして午後は、夫婦二人でブックカフェへ行き、本を読んだり、そこの主人とおしゃべりしたりした。
とても楽しい、いい一日だった。
その夜、台湾―沖縄の格安航空券セールが、夜中の12時から始まるというメールを受け取り、
私は旦那にそのことを話した。そして、12時にパソコンで航空券をチェックしていたのだが、
思ったほど安いチケットが見つからなかった。また、今年は日本移住のためにバタバタするので、
急いでチケットを買わずに、また別の日にゆっくりスケジュールを考えて、安いチケットを探そう。
ということになった。
それも、躁状態になるきっかけの一つだったのだと思う。
なぜなら、去年、私たちは沖縄へ行ってWWOOFをした。すごく楽しかった。
大自然に囲まれて、のんびりと生活して。そこで、同じくWWOOFをしにきたフレンドリーでやさしい台湾人の友だちもできた。
旦那は、その体験を通して、初めて日本に来て生活をしてみたい、と思い始めたのだそうだ。
旦那にとっては、その沖縄での体験はものすごく大事な意味を持ち、とても貴重な美しい思い出となっていたのだ。
沖縄行きの格安セールの話で、もう一度、あんな生活ができる、と旦那はそう期待した。
そしてそれが、また延期になってしまった。また旦那をふいにがっかりさせてしまったのだ。
そしてその夜、旦那はまた寝付けなかった。
私は先に寝たのだが、翌朝起きたら、旦那が夜中の間に、私をタグ付けして、
a perfect dayという、ルーリードの歌詞について書いた記事を見つけた。
その歌詞は、「今日はとってもパーフェクトな一日だ」という内容で、
ポジティブな歌詞だとおもっていたら、歌詞の最後にこうあった。
「お前たちはいつか報いを受けることになる」
その歌詞を読んだ時も、それほど気に留めていなかった。
しかし、今この歌詞を読み返してゾッとする。
私たちのことを書いてるみたいだ。
旦那は、ずっと私に対して「苦しんでいる」サインを発していたのだ。
それなのに、私はそれに気づかないでいた。気づかないふりをしてたのかもしれない。
どちらにしろ、そのせいで、私たちは報いを受けた。
その日私たちは台北に行って、日本行きのビザ申請をし、それから旦那の友人とあって
お茶をしたり、夜ご飯を食べたり、忙しくしていた。その間、旦那はかなりハイだった。
友人の前で話をしていて、泣き出すこともあった。でも旦那は言った。
「これは、ストレスを発散しているだけなんだ。だから、心配しないで」
私はわかった、わかった、とうなずき、そして夜中に台中に帰ってきた。
翌朝、というか、夜中の三時すぎくらいに、旦那は起きだした。
その日一日のことはあまり覚えていないのだが、たしか絶えず友人に電話したりLINEでメッセージを
送り続けたりしていた。
私はいやな予感がした。旦那に寝たほうがいいよ、と何度も言ったが、眠くなったら寝るから、大丈夫。
とそのたび言い返された。
その夜、旦那の両親が帰宅し、最初はただ何気なく話をしていた。
それが、突然旦那が怒りはじめ、声を荒げ、そして泣き始めた。
そこで初めて、あ、再発した。と、誰もが思った。
その夜はとにかく旦那に言いたいだけ言わせて、ストレスを発散させてあげようと、舅も姑も私もただ話を聞いていた。
その夜、旦那はまた2時ごろ起きだし、ちょっとした異常行動に出た。
私はぎょっとしたが、冷静にならなきゃ、と思い、そのまま旦那にやりたいようにさせた。
そして、そのあと旦那はまた眠り、4時ごろ起きだした。
台中の今住んでいるこの家は、旦那の両親の家なのだが、とにかく蚊が多いのだ。
どこから入ってくるのかわからない。ただ気密性がしっかりしてない上に、網戸もうちの猫が簡単に開けてしまうので、
蚊がたくさん入ってきて、夜耳元でぶんぶんいうのでなかなか寝付けず、私も旦那もずっとそのことに悩まされていた。
この日旦那が4時ごろ起きたのも、蚊のせいだった。そのあと、
もうちょっと寝てみようよ、脳は疲れてないと思ってても、体は疲れてるんだよ。
と言ってみたが、「大丈夫、本当に俺は全然疲れてない。脳はすごいクリアだ。」と言って聴いてもらえず、
そのまままた友達と連絡を取ったり色々し始めた。
そんな状態が三日ほど続いたろうか。その間、私は旦那のことが心配で、精神状態も不安定になり、
夜中旦那が起きだすと私も気になって目が覚める、という生活だったので、何があったのか細かいことを
覚えていない。
そして、旦那の躁状態が現れてから5日目くらいだったろうか。
夜、私と旦那は二人で近くの公園に散歩に行った。
満月の夜だった。
私と旦那はベンチに座って話をしていたのだが、
旦那の目がうつろで、ずっときょろきょろと、右左に動き続けて視線が定まらなかった。
それを見て、私はなんだか怖くなり、
「ねえ、私の目を見て。ちゃんと話をしようよ。」
と言った。
最初は一瞬私の目を見たが、すぐに視線をそらして、また黒目がきょろきょろ左右を動き続けた。
私は旦那の頭を両手で押さえつけ、旦那の目をじっと見て、「こっちをちゃんと見て」と言った。
その時、私は旦那の目の中に、恐怖の色を見た。
私はそれから手を放し、
「もう遅いから、帰ろう」
と言った。
旦那も歩き始めたが、突然、
「俺に命令するな!」と大声で叫んだ。
そばを通りかかった人がびっくりした顔でこちらを見ていた。
それくらい大きな声だった。
私もびっくりした。
私は言った。
「ねえ、そんな状態だったら、私たち日本になんて行けないよ。
それか、私一人で日本に帰る。」
すると旦那は、
「そうすればいいさ!」
とまた怒鳴った。
私は「じゃあ、そうする。」と言い、
とにかく家に帰るために歩き続けた。
旦那は、ひと呼吸おいてすぐに言った。
「・・・ぜーんぶ冗談だよ。」
その声に、力はなかった。旦那は、本当の本当に私と一緒に日本に行きたいのだとわかっていた。
だから、私が言ったことに対して、恐れているのだ。
でも、私は、その時まだ頭に血が上っていた。
「何が冗談なの?冗談じゃないよ。全部本気だよ。」
私が、旦那を、ここまで追い詰めた。
翌朝、私が起きた時、外で叫ぶ旦那の声が聞こえた。
近所の精神障害があるおじさんと、喧嘩をしていたのだ。
旦那は、ものすごく興奮していた。
そして、あの狂ったやつに、最初に頭を殴られたんだ、警察に電話して、あいつを逮捕してもらわなきゃ!」と言った。
実際に、電話をしかけた。
幸い土曜日だったので、姑も家にいて、騒ぎを聞いて起きてきた。
そして、警察には上手く説明した。
ここのマンションの警備員は一部始終をすべて見ていたので、姑がこの警備員に話を聞くと、
本当は、旦那のほうから突っかかっていって、先におじさんを二回蹴ったのだと言う。
しかし、旦那は、自分が先に殴られたのだと言い張り、とにかく警察に電話しろ!と、
興奮状態で手を付けられなかった。
その日、もうだめだ、と思った。
もう躁うつ病の薬を飲ませるのが怖い、なんて言っている段階じゃなかった。
旦那のいとこが、旦那と私を連れて、車で台南の精神科のクリニックに連れて行ってくれた。
(旦那のいとこも、躁うつ病だったことがあり、その精神科のクリニックに何度か通っていたのだそうだ。
それにしても、台中から台南まで二時間もかかるのに、なんでこんな緊急時にわざわざ台南まで行くんだ、と
私は思った。台湾人の考え方はあまり理性的じゃない。でも、私もパニック状態、ショック状態であまりものを
考えられず、とにかくとりあえず医者にかかれるならどこでもいい、と思って、台南に行った。)
そこで、睡眠薬と躁に対する薬を処方された。
私は診察に付き添ったのだが、その医者は正直あまり信用できそうになかった。
さんざん長時間待たされて、あげく、そろそろ閉院の時間だから、手短に話して。
と言われ、今の体の不調は?と、病歴は?家族に精神疾患の人は?最近よく眠れる?
この四つしか、質問されなかった。全部で10分くらいだろうか。
いくらなんでも、こんなんで、躁うつ病かどうか診断できるんだろうか?といぶかった。
しかしとにかく薬はもらったし、いとこが勧めるクリニックなのだ。
まずは旦那に薬を飲ませて、様子を見るしかない。
そして旦那に薬を飲ませ、旦那はよく眠った。
その夜、旦那は5時間くらいは寝ただろうか。
私は一時間くらいだけ寝て、あとはずっと心臓がどきどきして眠れなかった。
旦那がいつ起きだすか不安だったからだ。
そして、翌日5時ごろ旦那は起きると、またひっきりなしにしゃべり始めた。
私はちょうどその時、うとうとし始めて眠りたかったので、旦那に
「ちょっと寝るね。」と言って、そのまま寝てしまった。
眠りかけの意識の中で、旦那がリビングで絶えずごそごそと動いて何かしているのがわかった。が、起きて見に行く元気がなかった。
すると、音に気付いて舅、姑が起きだし、旦那の相手を始めたのがわかった。
私は一安心し、そのまま眠った。
私が起きると、旦那はまだ興奮状態だったが、多少は落ち着いたように見えた。
そこで、旦那の気分転換のために、家族全員で旦那を連れて、ここから郊外の、ラベンダー庭園へ連れて行くことになった。
もらった薬をきちんと飲ませていたからか、旦那の気分は少しずつ落ち着きを見せ始めていた。
ちょっと気になったことが一つだけ。
旦那の両親も姉も、できるだけ旦那と距離を取り、できるだけ私に旦那の面倒を見させるようにしていたことだ。
薬の管理も私に任せていたし、旦那が夜ちゃんと眠るよう、よく見ていてくれ、とも言われていた。
旦那の両親も旦那のことが心配で、不安で、しかも仕事にもいかなければいけないから、
彼らも彼らで心の余裕がない状態だったのだ、ということはよくわかる。
しかし、私も私で限界だったし、一人で今の状態の旦那をずっと支え続けるのは絶対に無理だと思った。
そして、どこか旦那の両親に対する怒りもあった。
それは、だんなの症状がここまで悪化してしまった原因は、もちろん私にもあったが、
旦那の両親にもあったのだ。それをきちんと彼ら自身が自覚し、受け止めなければ、
旦那が完全に治ることはない、私はそう考えている。
旦那の第一回目の躁状態が現れたとき、旦那の両親は驚いて、旦那を
お寺に連れて行って祈祷したり、神様にお祈りしたあとのお香をくだいて
旦那に飲ませたりしたそうだ。
しかし、精神科には一度しか連れて行かなかった。躁うつ病の薬は一週間飲んだだけで、あとは
漢方薬を飲ませていたそうだ。
私はお寺での祈祷やお香に効果がないとは言わない。
確かに私の目から見れば、非科学的に過ぎるし、最初は「は!?」と思ったが、
そういう目に見えないものの力を、ここ数年で少しずつ感じるようにはなっていたから、
完全否定はしない。
ただ、科学的な見方というのも絶対に必要なはずだ。
科学的な見方だけでも絶対には治らないだろう。
人の心や体は、科学だけでは解明できないと思っているから。
どちらにしても、科学的なアプローチと非科学的なアプローチ、きちんとバランスを取れてこそ
ちゃんとした治療ができるのであって、
お寺で祈祷したりお香に頼ったりしただけで、躁うつ病が治るわけがない。
話はちょっとそれるのだけど、台湾人には(たぶん中国人も同じ・道教の影響)非科学的な考え方をする人が多い。
非科学的な考え方が悪いわけではない。ただ、さっき書いたように、科学的な視点というのも絶対に必要だと私は思うのだが、
それが多くの台湾人には欠けている。特に、年齢が上に行けば行くほど非科学的だ。
舅はまだそれでも、本や専門的な雑誌を自分で読む。ネットで調べることもする。比較的科学的な考えもできる人だ。
しかし、姑はそうじゃない。姑は伝統を重んじ、毎月神に祈りを捧げるし、毎月の伝統行事もきちんと行う。
本や専門的な雑誌はほとんど読まないし、たぶん知らないことをネットで調べることもほとんどしない。
また、最初に旦那の躁状態が現れた時、旦那は精神科の薬を飲むことを強く拒んだそうだ。
手がつけられないくらいに、強く拒んだ。だから、舅も姑も、旦那のことを恐れて精神科には一度しか連れて行かなかった。
私は今回の躁状態が現れたとき、まずそのことに怒りを感じた。
親として、最初の時にきちんと状態を把握し、きちんと科学的に事実を認識し、旦那に定期的に精神科に通わせていれば、
ここまでひどくはならなかったはずなのに。
普段とは全く違う旦那の姿を見て、私は泣きながらそんなことを考えていた。
旦那をここまでひどく追いやったのは、私であり、それからこの人たちでもあるのだ。
それなのに、私一人に平日旦那の面倒を見させ続け、二人は相変わらず仕事に出かけている。
今は薬で落ち着いてきたからそれも大丈夫だけど、数日前までは本当にきつかった。
私だって心の整理をする時間くらいほしいのに、そんな時間もないまま、
24時間ほぼずっと旦那のことを気にして、旦那のしゃべり続ける話を聞いて、夜も眠れないで過ごしていたのだ。
(とはいえ、それはたった一週間ほどのことなのだけど。。)
そんな大変なときに、仕事を休まない両親には、すごく腹が立った。
いくら旦那の両親の家にお世話になっていて、私の立場が狭いものであっても、
彼らは彼らなりに、自分の息子に対して責任を負うのが筋だ。
もし彼らが私の立場だったら、こんな風に一人で24時間ずっと異常行動を続ける人のそばで支え続けることが果たして
できるのか?そう問いたかった。
なので旦那の両親には少なくともこう言った。
「今は私はまだ大丈夫だけど、本当につらくなって限界の時は、私だって旦那と距離を置く必要があるし、
その時はあなたたちにそう言います。その時は仕事を休んでください。」
旦那の両親は何も言わなかった。
私だって私自身に怒りを感じている。
ただ、それと同じくらい旦那の両親に怒りを感じている。
旦那をここまで追い詰めた、私と、旦那の両親。(それから台湾の環境など、本当はもっといろいろあるのだろうけど)
私たちは、それをきちんと受け止めないことには、関係を改善していくことはできないだろう。
その3へ続く