野生動物との共生について考えた | Fire Spiral Gypsy ACHICO

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火と舞う、自然と寄り添い暮らす、ACHICOの物語

この頃、すごく身近に強く感じることがある。

 

それは「いかに野生動物と共生するか」ということ。

 

今年の我が家の田んぼは散々だった。

 

稲穂がつき始めて間も無くした頃から

毎夜毎夜、イノシシに田んぼを荒らされてしまった。

家のすぐ下にある田んぼを歩く獣の気配に夜中目が醒めることも

一度や二度ではなかった。

 

夕方仕事から帰った旦那様がシャワーを浴びようとお風呂の窓を開けると

田んぼを挟んだ向こう正面にいた「おことぬし級」のイノシシとご対面したこともあった。

 

 

当然田んぼは柵で囲って守ろうとしたけれど、

毎晩のごとく柵を倒されたり、網の下を掘って侵入され、

何度も修復した努力も無駄に終わった。

 

一度味を占めると繰り返しヤツは来る。

そう聞いてはいたが、田んぼをやり始めて数年間でこんなに

ひどい被害にあったのは初めてのことで、

毎朝どんどん倒され無残に踏み潰された愛しの我が稲穂たちを

見てはただ呆然とするだけだった。

 

どれだけ苦労して種をまき、苗を育て、手植えしたことか。

その間も、種もみを野ネズミに食べられないようにしたり、

芽の出始め時には野鳥に狙われないようにしたり、

新芽をカモシカに食べられないようにしたり、

すぐ隣で共存している野生動物たちの気配をかいくぐりながら

何とか対策をして死守していたのに。

 

昨日全ての稲刈りを終えた。

と言っても何とか食べられなかった稲たちは全体の5分の1程度。

例年の収穫に比べればほんの一握りのお米しか収穫できなかった。

 

 

無残に踏み潰された泥だらけの稲穂たち。

それでもかろうじて生き延びたイノシシの食べ残しを

1本でも多く救出するため、選別しながら刈って行く。

 

これは何とも虚しく切ない作業だった。

 

本来なら稲刈りは収穫の喜びに溢れる心豊かな時間なのに。

ほんの少しの、けなげに耐えしのいだ稲穂たちを

諦めきれずに刈っていると、

 

はじめ私の心を占領していたのは、

大きな落胆と、ヤツへの憎しみだった。

さぞかし美味しい無農薬米をたらふく食べて満足したことだろう。

 

踏み荒らされた田んぼ、掘り返された畔を見るたび、

また来年も田んぼをやる気が失せて行く想いだった。

 

でもだんだんと稲刈りを一人黙々とやっていると

瞑想状態になり、心の模様も変わってきた。

 

 

かつて、動物と人間は調和的に共生していた時があったのではないだろうか。

きっとその当時は、動物は森で、人間は里山で、きちんと住み分けされていて、

お互いの領域を荒らすことなく「聖域」が守られていたのではないか。

 

人間も動物を必要以上に獲ることはしない。

イノチをいただき、自分たちを生かしてくれる動物たちに感謝し、神様や精霊として

奉り、大切にしてきたに違いない。

獅子神様を奉りあげる獅子舞やその他の荒ぶる神々のご神事なども、

大自然への畏敬の念と感謝が深く深く込められている。

人間は決しておごることなく、謙虚に自然の一部として生きていただろう。

 

 

 

現代では田畑を荒らす「害獣」として落ちぶれた扱いさえされている動物たち、

何故ゆえにそんな姿になってしまったのだろうか。

きっと、互いに尊重しあい、守られてきた「聖域」を踏み越え、

食べるだけではなく、お金のために動物たちを乱獲し、

自然界に共生する暗黙の掟を、人間が破ってしまったからではないだろうか。

 

お金のために木を皆伐し、杉檜を植林し、動物たちの食べる実のなる森を奪い、

お腹を空かせた動物たちがやもなく里山に降りて来るのを「害獣」扱いしてしまっているからではないだろうか。

 

 

私も、せっかくの苦労が無駄になり、こみ上げる怒りの中で

憎っくきヤツを仕留めて食べてやりたい!という気持ちにすらなった。

 

ただ、そんな目先だけの話ではないのかもしれない。

 

 

「聖域」を侵され怒りや屈辱を感じるのは、

決して人間だけではないはずだ。

 

奪い合い、見下し合い、殺し合うのはもうやめたい。

 

 

 

数年前に富士山の麓で皮むき間伐「きらめ樹」を通して森の現状を学んだ。

(女性子供でも森に関われる、誰でも間伐できる、素晴らしい手法です。興味ある方はぜひ調べて見てね♪)

 

 

 

先人たちが一生懸命植えた杉檜は、安い輸入材に押されて需要がなくなってしまい

手入れすらされることのないまま放置されている森がこの日本にどれほどあるのかを知って驚いた。

 

 

 

 

光の入らない森には単一の植生しか育たず、動物たちの餌になるような実をつける木が全くないため、

お腹をすかせた動物たちは仕方なく里山へ降りるしかないのだ。捕まって殺されるかもしれないから命がけだ。

 

落葉のない森の土はどんどん痩せて、治水力がなくなり、大雨に耐えられず崩れ出す。

間伐されない密集した木々はモヤシのように細長く、強風に耐えられず倒れる。

 

日本各地で起きている災害の多くは

ものすごい降雨量に許容を超えた山が崩れ、土砂が流れ出す。

治水力のない山の山肌を一気に流れ下る水が川を氾濫させる。

たくさんの民家や人々が巻き込まれ、復旧にも多大な時間と労力が必要とされる。

別々の問題のように見えるが、

辿っていけば実は全部、「森」が問題なのだ。

 

崩れたところをコンクリートで貼り付けたって、

決壊した堤防をまたさらに高く積み上げたって、

動物たちに侵入されないように集落全体を檻のように柵で囲ったって、

 

結局は同じことが起こるかもしれない。

だって、根本的な原因は解決されないままだから。

 

 

森を蘇らせなければならない。

もっと間伐しなければ。

実のなる木、落葉樹を増やさなければ。

水脈、気脈を整えて守らなければ。

本来の多様な植生の共生する、豊かな森に戻さなければ。

 

 

一人一人が、もっと森について考えることができたらいいな。

都会に暮らす人も、海に暮らす人も、平野に暮らす人も、みんなで。

 

 

これからの動物たちとの共生について、

どうしたら与え合い、支え合い、尊重し合い、お互いさまに助け合い、調和していけるのか。

これ以上の災害が起こらないように、どうしたら自然を蘇らせ守っていけるのか。

私たちは、暮らしの在り方、意識の持ち方、未来を見据えた目線を持って考えなければいけないのではないか、そう思った。

自然の一部として、この地球で生きて行くためにも。

自分や家族だけでなく7世代先の子供達のためにも。

 

 

稲刈りの終わりを注げるように太陽が西の山に沈んだ頃には、

私の中にあった怒りや落胆は嘘のように消え去り、

壮大な時空間の物語を旅しながら、

私たちの世代で成すべき使命をあらためて再認識して

なんだか清々しい気持ちになって空を仰いだ。

 

私たちがどう動くかで、未来は変わっていくのだから。