「神」とは何か?(2) ~ 『トランス・ヒマラヤ密教入門』より | 神尾学と学ぶ!スピリチュアルの王道

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ウエサクのお知らせが入りましたが、一昨日の「『神』とは何か?(1)」に続き、この時期にふさわしい話題をお届けしたいと思います。

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 「自分自身の断片を宇宙全体に浸透させ」、それでも「私は変わることなく存続する」超越する神が存在する。
 そして、すべての自然王国のすべての形態の活動、知性、成長、引力の源としての生命を持つ内在する神が存在する。
 さらに、超越する魂がすべての人間の内に存在する。・・・

 形態内にあり顕現しているときに、人間のマインドと脳が、条件づける神聖なる生命についての認識を表現できる唯一の方法は、それを人として、個人として語ることである。
 そのため、私たちは人としての神、彼の意志、彼の性質、彼の形態について語るのである。

 
 しかしながら、顕現している宇宙を超えて、形のない方、つまり個人ではなく個人化された存在の限界に縛られることのない「それ」は存在する。
 したがって、仏教徒が神の個人化されない性質を強調し、神を人格化するのを拒絶することは正しいことである。

 すべての教えの理論に示されている三重性を具体化しているキリスト教神学でいう父と子と聖霊は、顕現期間が終わった時に、また一なるものの中に消滅する。
 三位は、顕現しているときもそうであるが、触れられることも分化されることもない特質と生命をもって一なるものとして存続する。

 人間が死んだときにも、これに似たことが起こる。
 そのとき、人間の三つの様相――マインドつまり意志、情緒つまり愛、そして物質的な現われ――は消え去る。
 そのとき、人格は存在しない。

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神は人格をもつのか、もたないのか? つまり、私たちが神としてイメージしやすいのは、人間に似た姿で、全知全能の完全な存在=人格神ですが、神とはそういった存在なのか、それとも人間とはまったく似つかない姿の存在なのか? という問いが、前回の(1)であり、その答は、どちらでもあり、その間に矛盾はない、というものです。

秘教の中では、人間を卒業するとマスター(=大師・覚者)になり、その先に進むルートは7つあって(『イニシエーション』第一八章 「七つの道」)、そのうちには人間的な姿を取らなくなるものもあるような感じがします。
しかし、シャンバラの主であるサナット・クマラも、「永遠の少年」と呼ばれるように、人間の姿をもっているようなので(一側面かもしれませんが)、太陽系ロゴスであっても、人格神的にも捉えられる可能性はあります。

しかし、ここの引用の最初にあるギーターに紹介されているクリシュナの姿は、アルジュナを驚嘆・畏怖させたように、まったく違った側面も併せもっているとも思われます。

『トランス・ヒマラヤ密教』の「神」の項目の中の別の文章としては、
「科学者がエネルギーと呼び、宗教的な人々が神と呼ぶもの、これらは同一のものであり、偉大なる太陽系外のアイデンティティーの目的が物質質料をまとって顕現したものにすぎない。」
という言葉もあります。神=エネルギー(おそらく、Ray=光線)です。
よく考えてみてください。かなり衝撃的なメッセージです。


「すべての自然王国のすべての形態の活動、知性、成長、引力の源としての生命を持つ内在する神」というのは、(「父なる神」につながる通常の「霊的な」内在する神とは異なる、「母なる神」の中に内在する神のようですね。
『秘教治療』を読んでいても、「生命」という言葉が、様々な次元で使われており、「生命」=「神」とも言えますので、「神」にも様々な次元がある、ということなのでしょうか。

「超越する魂」というものまで、出てきました。
「魂の存在界層には『私の魂とかあなたの魂』というものはない。
様々な魂、様々な体と考えるのは、イリュージョンとマーヤの三界においてだけである。」という言葉が、「魂」の項目の(12)=P86に出てきます。最近はやりの「ノンデュアルな世界」ですね。

「形態内にあり顕現しているときに、人間のマインドと脳が、条件づける神聖なる生命についての認識を表現できる唯一の方法は、それを人として、個人として語ることである」というのは、納得です。

しかし、仏教でもキリスト教でも、(読み方によっては)共通して「顕現している宇宙」を超えた世界においては、人格神的な存在は消えるとも語られているようです。
しかし、それは私たち人間には体験できない世界です。

真にそういった世界から舞い降りてきて私たちの救済に当たられているアバダー~聖者がいることは確かでしょうし、そういった方々は真にその世界を体験されていてそれをもとに比喩的に言語化して語られているのでしょうが、原理的にその世界を体験できない私たちがそれを真似て語ると、とてもおかしな、不毛な議論になってしまうことは、よくあります。

当然のことながら、「神」・・・最強に手ごわい項目でした。
明日も、続きを書きます。