『人間に魂はあるのか ~ 本山博の学問と実践』 より | 神尾学と学ぶ!スピリチュアルの王道

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昨日に続き、先日89歳で他界された本山博氏の業績について、ご紹介させていただきます。


著作リストは昨日ご紹介させていただいたサイトにも載っており、その他、発信された情報は膨大なものがありますが、その業績をコンパクトにまとめた

『人間に魂はあるか? ~ 本山博の学問と実践』(国書刊行会)

という本が、2年前に出されています。


この本に関しましては、実は私も、先のブログで書いたように、最後の一般講演のときに、(ほんの脇役で)司会をさせていただき、そのときの話が載せられているため、おこがましくも著者の一人に名前を連ねさせていただいております。


(樫尾直樹/本山一博 編著、稲盛和夫/影山教俊/神尾学/小林正弥/佐久間秀範/津城寛文/村上和雄/本山博著)


以下、その出版社書籍案内から、ご紹介させていただきます。

http://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336057372/



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「領域横断的な科学者にして宗教者である稀代の見者、本山博の仕事を通して、スピリチュアリティと宗教のあり方やありうべき研究のパースペクティブについて、根本的・本質的に考究する。


 本山は、比較宗教学、宗教哲学、電気生理学、超心理学などの多領域を越境・統合する諸研究によって、世界と人間の宗教的/スピリチュアルな存在構造とその動態を解明しようとしてきた世界的な碩学である。


 それゆえ、スピリチュアリティや宗教について議論する際には真っ先に当たらなければならない存在である。

 しかしながら本山は、海外では『スピリチュアリティといえばこの人』と言われ、その著書がユネスコより哲学部門優良図書に挙げられるほどに著名な『スピリチュアリティの巨人』であるにもかかわらず、国内では一部を除き、その業績や人となりが人口に膾炙されることはほとんどない。


 本書はこの意味で、本山の仕事の研究史的・実践的な意義について議論する世界初の画期的な書であると言えよう。


 第1部では、公共性、および他界性と社会性という不可視の共同性の2つの位相をめぐる人文社会科学の議論において、本山の研究がどのように位置づけられ、どのような学問的貢献を果たす(果たしている)のかについて、論じられる。


 第2部では、「本山学」がヨーガを中心とした瞑想実践をその研究の核に据えている点に大いに着目し、

①比較瞑想論の方法論的意義と学問的広がりに関する宗教学的研究

②唯識瑜伽行派と密教ヨーガに関する仏教学的論考

③止観をそのモデルとする瞑想の一般的構造に関する

仏教心理学的考察

という3つの観点から、問題提起を行う。


 第3部では、本山と親交のある同世代の経営者、稲盛和夫と、生命科学者、村上和雄の2人の「かずお」氏が、それぞれの実践や研究の領域で、魂や神仏についてインタビュー形式で語り、本山へのオマージュを表現する。


 第4部では、本書の題名とした「人間に魂はあるか」というラディカルな問いに関して、電気生理学的な実証研究を行ってきた本山博本人の講演と、その質疑応答が、まず所収されている。次いで、本山の宗教的後継者である本山一博が、「本山博神学」全体に通底する「相互内在」という核心部について、総合的に論じる。・・・



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このような多様な分野にわたる研究・実践を行われてきた本山先生ではありますが、その業績集とも言える著作に「人間に魂はあるか?」というタイトルを選ばれたことに、一番大切にされていた研究テーマが浮き彫りにされていると思います。


この「人間に魂はあるか?」、スピリチュアル関係者には当然と思える問題ではありますが、それを科学的に証明することは、『秘教心理学』をはじめとするアリス・ベイリーの著作で提出されている重要テーマでもあり、昨日の記事のFBシェアの際に書いたように(*)、私の立場からすると、本山先生は真の秘教徒であった、ということができます。


(*:秘教を学ぶ者に求められる生き方とは、まず第一に、「ハイラーキーの大計画」に基づいて働くこと、すなわち、地球人類を導く存在というものがあったとき、その方々が今この時期に、私たちをどのような方向に導かれようとしているのかを、熟考と瞑想を通して察知し(その結果得られるのが、一昨日書いた「啓示」です)、その方々の、この地上での意識の前哨として働くことです。19日に逝去された本山博先生は、まさにそのような生き方を貫かれた方だったと感じています。)