まず、何から書いていこうかとしばらく思案していたら、

 こんなテーマを突きつけられたので、

 それに関して思うことを書いてみることにした。

 

 

 

今朝の新聞のトップに、子どもの自殺に対する国の調査結果に関する記事が載っていた。

 

「半数以上が原因不明」という結果に対して違和感を覚える私にとっては

 歯がゆさしか残らない内容であった。

 

子どもたちが誰にも相談しようとしないのは、明確な理由がある。

 

 しかし、その理由を掘り下げて根本的な問題性を明らかにしていこうという姿勢が今の社会には欠けている。

 差し障りのない表面上の問題性を指摘して、

 「このルールに従って、みんなで頑張って解決していきましょう。」

というのが大人社会の常套手段であって、

  それで一件落着にしてしまう。

 

 

 本質的な原因究明をしたがらないのは、

  そこに社会の矛盾が深くはびこっていることをなんとなく知っているからであって、

  それは今の社会のさまざまな基盤を揺るがしてしまう危険な行為であることを

  なんとなく知っているからである。

 

 そんなことをわざわざ自分がやろうとは大抵の人は考えない。

その必要性を感じたとしても、

 自分の身を守ることの方が優先されるからである。

 

 

 

 この構造は、自殺問題に限らず、

社会のあらゆる問題にも共通している病理現象である。

 

 いじめや虐待、子どもたちが起こす心因反応(ストレスが体の不調を引き起こすもの)のほとんどが同じ社会病理によるものと言える。

 

 子どもはなぜ自分のつらい気持ちを周りの人、最も身近な家族(親)にきちんと話せないのか、

そのことに大いに疑問を感じてほしい。

 

 「言っても分かってもらえない。」と子どもが感じているとしたら、

それはなぜなのか?

 

 親が悪い、家庭に問題があるという単純な説明をしてはいけない。

 

 そもそもそういう親(家庭)はなぜ問題を抱えたままでいるのか、

なぜ問題を抱えることになってしまったのか。

 

 それを現代社会の矛盾や葛藤という枠組みでとらえていくことで、

答えや打開策が見えてくるはずである。

 

 

 家庭だけの問題でもない。

 

 仮りに、いじめや虐待が発覚したときに、周りの大人はどのような対応をしているのか、社会の制度としてどのような対策が取られることになっているのか、

その実態をきちんと把握できている人がどれだけいるか。

 

 社会的な問題として騒がれると、そのための法律が作られるが、

その法律を確実に実施していくためには何が必要なのか、

現実に今それは確保され機能しているのか、

それは誰がチェックするのか、

こういったことがどれもあいまいなままになっている。

 

 形だけ整えて、実体が伴わないから、

法律ができたところで根本的な解決には向かわない。

 

 

 このことは、政治の世界のことだけではない。

それを実践している現場においても、

一人一人の努力にも限らず、全く同じような病理構造がはびこっているせいで、

表面的な問題解決でお茶を濁している場合が多いのをいろいろ見てきた。

 

 結果的に、親だけが悪者扱いにされ、

子どもも親も我慢することしかできなくなりがちである。

 

 たまに、そこにメスを入れようとする勇気ある存在が現れても、

それをうやむやにさせて現状維持を優先させる見えない力が働いてしまう。

頑張っても徒労感に終わるだけで、

その人も底に長居することをやめて去って行く。

 

 

 この、ある個人による革命的な、時に自己犠牲的な行為が、

その集団社会の中では排除されていくという不思議な構造が、

今の社会のあちこちに見られる日本的な特徴とも言える。

 

 

 だから、子どもの自殺も、いじめも虐待も、

それを予防・改善するための枠組みができても、

根本的・本質的な問題性は何も変わらないため、

一向に減少しないばかりか逆に毎年増加の一途にある。

 

 

 この現実を私たちはどうとらえていく必要があるのか、

自分たちが何かできることはないのか、

 

   それが問われていると思う。