心の問題や様々な精神症状を見ていると、
そのほとんどの背景にある大人社会の問題、
まさに「闇」というべき葛藤や矛盾が浮き彫りになります。
その中で、日ごろから気になっているいくつかについて、
個人的な印象として部分的に問題提起をしてみたいと思います。
一つ目は、現代医療の「闇」です。
たとえば、医療機関の都市部と地方とでの圧倒的な格差が上げられます。
以前にいくつかの医療施設に必要数の医師を確保する仕事に関わったことがありますが、
「医師が不足している」という説明によってほとんど補充することができませんでした。
しかし、都市部には病院やクリニックは沢山あり、
医師の絶対数が足りないのではなく、
専門の再分化が進んでいるためとは言え、
条件の良くない所には勤務したがらないためというのが現実でした。
また、保険点数というものに関しても、
医療費が分かりやすくなっているように見えて、
それぞれの点数設定の仕方は素人目では疑問を感じる場合があります。
薬の処方に関しても、医師による違いが結構大きいようにも感じます。
こうした外形的な部分への違和感以上に、
いつも不思議に思うのは、
社会の人々が「医師が言うこと」に対して
一部例外はあるとしても、ほぼ全面的に「正しい」こととして受け入れることです。
いろいろな地域に転勤し歩いた経験上、
ある病気・症状に対する医師の考え方・処置の仕方が
その地域によって結構違うというのが不思議でした。
これはその地域にある大学病院の考え方が反映されるからであって、
別の地域では別の考え方になるのはよくあることということなのですが、
よく考えれば、自分が住んでいる地域ごとに何が「正しい」かが違ってくる
ということでもあります。
セカンドオピニオンというものがあっても、
どの医師の見解を受け入れるかということであって、
そのどれが本当に正しいか、適切かに関しての判断は一般人にはできません。
テレビや雑誌などで紹介される、専門医の見解というものも、
医師によって結構違いがあったり、
まるで逆のことを言ったりしていることも時々あります。
たとえば、牛乳は「体に良い」のか「体に良くない」のか、
誰の意見に従えば良いのか分からなくなります。
一方、心理的側面からの支援を行っていく中で、最も違和感を感じているのが、
精神科診断の危うさです。
私が関わってきたクライエントさんの中には、
「うつ病」と診断されている人が少なからずいました。
「うつ病」という診断は、精神科医でなくてもできるので、
本人が「うつ病ぽい」自覚症状を医師に説明すれば、
大抵は「うつ病」と診断されがちのようです。
そう診断されている人たちの中には、
私が改めて詳しく確認してみると、
「うつ病」ではなく、「うつ状態」であると思える場合が結構いました。
「うつ」のエピソードが語られた場合、
それがどの程度の期間続いているのかや、
その時々での程度の違い、そして、
そのせいで具体的にどのように社会生活に支障を来しているかというチェックが必要なのですが、
何かそれがおろそかになっているように思えるのです。
また、「躁うつ病」と診断されているという人に詳しく症状等を聞いてみると、
それも「うつ病」と考える方が妥当なのではと思える場合がありました。
最近は、「躁うつ病」と「うつ病」とは全く別のものであるという考え方が世界的に一般的になっていて
「躁うつ病」とは言わなくなってきているのですが、
「躁状態」のエピソードはあるものの
「うつ状態」のエピソードは本人も否定しているのに、
「躁うつ病」と診断されていることもありました。
そして、ここで触れておきたいのは、
この数十年で驚異的な増加傾向にある「発達障害」というものに関してです。
「発達障害」こそ、本人の自覚だけでなく、
家族や身近な人たちからの説明・報告が診断上必要不可欠なのですが、
一番困っている人(大抵は母親)が語る普段の問題行動や心配な面だけで、
あるいは連れてこられた子どもの診察室での行動特徴だけから、
「発達障害」と診断されてしまっている事例を沢山見てきました。
しかも、「発達障害のグレーゾーン」という
極めてあいまいなとらえ方で説明する医師も結構いるようです。
「グレーゾーン」と言う以上、
それがどのような、どの程度のグレーな状態なのかをきちんと説明しなければ、
親も具体的にどのように関わっていけば良いのかが分からないのです。
最近は、「発達障害の疑い」(「疑い」とするのもれっきとした診断名です)とするのを避けて、
「グレーゾーン」でごまかしているように思える場合も少なくありません。
「グレーゾーン」は診断名ではないので、
医師としては比較的簡単につけやすいようで、
それが「発達障害」が激増しているという現象の一因にもなっているように思えます。
「うつ病」と診断された人の中には、
基盤にあるのが「発達障害」的な特性で、
それに対して適切なケア・支援がなされないまま、
二次障害として「うつ症状」が生じていると考えられるケースも少なからず見てきました。
あるいは、「統合失調症」のような症状が生じているとしても、
その基底にあるのは「発達障害」的な特性であることも少なくなく、
見えている症状だけで診断された本人は、
投薬治療を続けても経過が改善されることなく、
これもいわば二次障害的なつらさを抱えたまま生活させられます。
これ以外にも「おやっ?」と思うものはいくつもあって、
たとえば「境界知能」と診断された子どもを最近の学校現場ではしばしば目にします。
知能に関しては、
医師だけでなく臨床心理士等の心理学的専門家による判断も可能なので、
心理職がよく理解できていないことが原因と思われる場合もあります。
また、不登校や登校渋りの子どもたちにしばしば見られるのが、
「ゲーム・スマホ依存症」とか「起立性調節障害」という診断名です。
なぜ、わざわざ診断名をつけて「病気」の一種にしてしまうのだろうと疑問に感じます。
依存症とは、
日常生活に支障をきたしているにもかかわらず
アルコール、薬物、たばこなどの特定の物質やギャンブル、買い物など特定の行動をやめることができなくなってしまう状態のことを指します。
依存症が長く続くと周囲との人間関係が破綻したり、
仕事ができなくなったりすることで経済的な困窮に陥るケースも多く、
通常の社会生活を送ることができなくなります。
また、アルコールの多飲や食生活の乱れなどから健康を害するケースも多く、
身体的・精神的なダメージを引き起こしやすいのも特徴です。
脳の回路に変化が生じて特定の物質や行動にのめり込み、
自分を制御することができなくなる病気です。
その結果、飲酒やギャンブルなどが生活の中の最優先事項となり、
仕事や学業、家庭生活などがないがしろになって
通常の社会生活ができなくなっていきます。
具体的には、引きこもりのような生活になる、
家族など周囲の人との人間関係が破綻する、
仕事が続かなくなったり借金を重ねたりすることで
経済的に困窮するといった生活への支障が現れるようになります。
医学的な説明はこうですが、
心理学的には、
心に何か大きな満たされずにいる思いがあるとき、
つまり心の中にいつも空虚感や大きな空白があるときに、
それを何か別の物で紛らわそうとするのが依存のメカニズムです。
自分でも何が満たされていないのかは分かっていないだけに、
あるいはそれを意識化せずにおこうという防衛機制が働きがちなだけに、
なぜそれに意識や行動がついつい向いてしまうのかに気づけないのです。
子どものゲーム依存とかスマホ依存とか心配されているもののほとんどは、
自分でやめようと思えばやめられることが多く、
今すぐにやめる必要性を特に感じないからやり続けているということなのです。
このように、診断ありきの医療が散見され、
この診断名をめぐって医療そのものにも様々な大きな問題が見え隠れしてきます。
診断基準が次々と変わる(改正される)のは、
診断技術が進んだからではなく、診断することで保険点数が付くからです。
あいまいな症状であっても、何らかの診断名を付ければ、
ましてやそこに処方箋が出されれば、相応の収入を確保できるという理由もあったりします。
二つ目は、大手新聞社やテレビ放送のキー局などのマスコミ業界の闇です。
公共のためのサービスという性格はとっくに薄れて、
政財界・権力者と深く結びついた利害関係が前面に出てしまっている状態があちこちで露見しています。
これについては、既に多くの人が気づいていて、
そこで示されたニュースや内容は真実とはかけ離れた、
人々を一定の方向に印象操作・洗脳しようとする意図が強くうかがえるだけに、
そこので情報を鵜吞みにはできないと感じている人も増えてきていると思います。
とはいえ、ネットやSNSには逆に
まことしやかな「フェイクニュース」や詐欺まがいのものがはびこっていて、
よほど慎重に気をつけておかないと、簡単にだまされたり振り回されたりしやすくなっているのも事実でしょう。
詐欺電話も毎日のようにかかってくる時代ですので、
外部刺激・外部からの情報を一切遮断しない限りは、
私たちの生活そのものが簡単に足元をすくわれてしまいかねません。
政府や各業界がそれらをなぜきちんと取り締まったり管理できないのだろうかと、
その点も不思議で仕方ありません。
三つ目は、学校教育に関してです。
そのいくつかについては既に述べてあるので、
重複を避けながら気になっている点を拾いあげてみます。
時代の変化についていけない今の公立学校は、
小手先の対策をいくら重ねても、
今どきの子供たちや親のニーズからはどんどんかい離していくばかりの状態に陥っています。
教員になりたいと思う人が毎年激減している原因はどこにあると思いますか?
時間外の業務が多いとか、その分の手当てが極めて不十分だとか、
そういった部分にばかり注目されてしまっていますが、
一番大きな、深刻な原因は、
教員個々の心身の負担が年々大きくなるばかりで、
精神的な健康が維持できにくくなっているからだと私は考えています。
その理由は、保護者との関係に過度に神経を使っていることと、
子どもたち一人ひとりの時代的変化の大きさに
従来の教育方針では対応できなくなっていることにあると考えます。
学校生活になじめずにいる子どもたちが口にする、
「どうして学校に行かなくてはならないの?」という問いに、
あなたなら何と答えますか?
「勉強するため」というのは、既に時代遅れの回答ですし、
友達付き合いや社会生活の送り方について学ぶためというのも、
学校でなければできないというわけではないので説得力がありません。
ネット検索してみると、学校で学べる事として、
「思いやりの気持ちとその実践」、あるいは「協調することの意味と大切さの実感」という説明がありました。
それも、学校生活を通じて結果的に学べることではあっても、
それが学校に行くことの主要な目的とまでは言えません。
子どもたち一人ひとりのいろいろな特性やニーズに応じて、
その子に最も適した指導を展開していくという視点は、
その必要性は承知していても、
日々の教育や指導は一斉方式の集団指導になるので、
それについていけない子どもたちは年々増えているという印象があります。
補助教員が配置されている学校も増えていますが、
それでも決まったことを決まっているとおりに実施させることに主眼が置かれがちなため、
その子特有のニーズに寄り添うことは必ずしもできていないようです。
特に、今は、いろんな星から来ている宇宙由来の子どもたちが大多数を占めているのに、
学校ではスピリチュアルなことはタブーとなっているため
その事実を認めることができないまま、
地球人向けのありきたりの一定のカリキュラムでしか指導できずにいます。
特別支援教室とか適応教室というのも整備されているとはいえ、
その内容・教育課程が真剣に議論されることはあまりないように感じます。
結果的に、みんなを地球人とみなして教育していく、
無理矢理地球人仕様の枠にはめていこうとする、
というのが基本方針になっているため、
制度だけが独り歩きしているという印象が強いです。
このことは、「学校がおかしくなっている」のではなく、
社会全体がおかしくなっていることの一つの現れにすぎないと考えます。
教育に関する、政府ー自治体ー学校現場という構造の中に、
とっくに疲弊し、行き詰ったシステムの問題性があることは
多くの人が感じている現実でしょう。
それは文科省だけのことではなく、
政府各機関が自己保身と旧体制維持を最優先した思考・行動で動いているせいであるとも言えます。
現状打破のための根本的な改革を目指す人がいたとしても、
その人を取り込んで余計なことはさせないような
有形無形の全体圧力が働き、
仮に強行突破しよとしても双方の妥協点で折り合いをつけて
ほどほどの所で済ませるという形にしてしまう。
これが今の日本社会の現実なのです。
そして、このことは昔からの日本の集団同調圧力の中で、
ずっと続いていたものであって、
日本人の意識や感覚がそういう現実を良しとしてきているということでもあります。
保護者にものを言えない学校、
一人ひとりにマッチした必要な指導ができない学校が
旧態依然のままになっているのも、
必要性は感じていても
それをすることで逆に不満や非難が学校に向けられたらまずいという意識が
教師一人一人にもあるからです。
なぜなら、管理職がそういう考え方なので、
一教師がそれに異を唱え、
自分のポリシーを貫き通すことは極めて困難なことだからです。
管理職のほうも、
「教育委員会がそういう考え方・姿勢なので」という言い訳をして、
自分の判断・行動を正当化しがちです。
その教育委員会もまた、
学校に対しても保護者に対しても、「指導」はしないとうそぶく始末です。
文科省もまた、
各自治体の教育委員会に対しては、
「こうしろ」という指示・命令の形ではなく、
「指導」とか「ガイドライン」といったニュアンスの
責任逃れのあいまいな監督をしているだけです。
自身の出世・昇進に影響するようなことはしないのが、
正しい在り方になっているのです。
目の前に何か問題を感じたとしても、
それを指摘して抜本的な解決を図ることは、
今ある体制や集団意識にメスを入れてしまうことになるため、
そんな恐ろしいことを敢えて自分がやろうとは思わないということでもあります。
「空気を読む」ことで、
言葉にならないものを共有しようとする努力であり姿勢であって、
自己主張することによって逆に自分が損をしたり傷ついたりすることがないようにするほうが無難だからなのです。