「いじめ」は、

 

 子どもたちの間でのことだけではなく、

 

 大人社会にもはびこっている社会全体の問題行動であるが、

 

ここでは、子どもたちにおける「いじめ」に焦点を当てて、日ごろ思っていることを書き留めてみる。 

 

 

 

 「いじめ」は、

 

「加害者」と「被害者」、そして「観衆・傍観者」という構造で生じているものであるが、

 

 そのそれぞれが抱えている心の問題がそこに現れているという、

 

 子どもたち一人一人の心の闇を映しだしている現象である。

 

 

 

いじめが最初に話題になったのが1980年代であるが、

 

 その前の70年代末というのは、校内暴力や少年による暴力事件が頻発していたので、

 

 暴力を伴わないそういう行為はあまり深刻だと思われていなかったとも言える。

 

 

80年代の前半でだんだん校内暴力が沈静化する中で、

 

 何かおかしいことが始まってきていると注目されだし、

 

 83年から85年にかけて、マスコミ報道が急増する。

 

 

 「深刻ないじめは、どの学校にも、どのクラスにも、どの子どもにも起こりうる」(文部大臣「緊急アピール」1996年1月30日)と問題提起がなされても、

 

 「いじめ」は一向に減少せず、最近では逆に増加の一途にある。

 

 

いじめが明るみになると、学校側がすることは、

 

 双方から話を聞いて、いじめた側の子どもに教育的指導をして、仲直りをさせるという解決方法を取ることである。

 

 通常は、いじめられた側の子も、謝ってもらったことと先生が相手に注意してくれたことをもって、いったんはほとぼりが収まる。

 

 

ただし、いじめられた側の保護者が納得しない場合は、

 

 保護者の意向を尊重しながらいじめた側の保護者からの直接的な謝罪が行われる。

 

 しかし、大抵の場合は、いじめは水面下に潜るだけで、

 

 しばらくするとまた同じようなことがぶり返されるのがよくある話である。

 

 根本的な対策や解決を学校側が図らないからである。

 

 

根本的な問題とは何か? 

 

「いじめられる側にも問題がある」ということは、学校側では指摘できないことになっている。

 

 しかし、「いじめられる側」に何らかの原因がある場合は多い。

 

もちろん、いじめる側の性格的・家庭的な問題性が原因となって弱いものいじめをしている場合もあるが、

 

 だからといっていじめられる側には何も問題がないということは滅多にない。

 

 そのことをもって、だからいじめても構わないということにはならないし、

 

 いじめる行為自体に焦点を当てて対策を取ることが必要なことは間違いない。

 

 

 

根本的な問題について考えていくと、

 

 いじめる側の子どもの問題としては、

 

  本人自身の日ごろの強いストレス状況にあることが分かる。

 

 

いじめる側の子どもの多くに見られるのが、

 

 「ねたみ」とか「嫉妬」の気持ちであり、

 

 要するに自分のプライドが傷つくと感じたことが引き金になっていると言える。

 

 たとえば、「大したことないと思っていた子のほうが自分より上に行ってしまった。」と感じると、

 

 「あんな子、本当は大したことないのに」と足を引っ張ろうとするのも同じである。

 

 

そこにあるのは、そこで感じたストレスを、

 

 何でもいいから解消したいという心理であり、

 

 ストレス発散というよりは、

 

  やはり自分の評価、傷ついている部分を何とかしたいのかなというニュアンスが強いかもしれない。

 

 

人に負けたくないとか、負けると悔しいとか、

 

 負け組になりたくないというような価値観が強い子どもは、

 

 たとえば、テストの点数が80点だったと返ってきたとき、

 

  それを「80点しか」と、ストレスを感じやすい。

 

 

 

一般的に、学校では、

 

 自分とタイプの違う子やみんなと同じように行動しない子に非難が向けられる。

 

 「ここではこうしないといけない」というその学校やクラスのルールが一人歩きする。

 

 

なぜそういう決まりなのかを理解することができない低学年の頃は特にそれが顕著になる。

 

ルールを守ってみんな仲良く落ち着いた学校生活を送れるようにするというのは正論であるが、

 

 この「正論」を振りかざして他の子を非難したり攻撃したりすることは正しいことなのか、

 

  許されることなのか?

 

  これは、大人社会においてもうやむやにされがちな本質的な問題点とも言える。

 

 

どこか、「自分はきちんと守っているのに、それを守らないのは許せない」

 

 という気持ちが見え隠れする。

 

 

この、「自分も本当は嫌だけれど、仕方なく我慢してそれに従っている」という集団心理が、

 

 既に子どもたちの中にも強く働いていることに驚く。

 

 

ここに、観衆や傍観者という立場になっている子どもたちにも、

 

 似たようなストレスを抱えていて、

 

 しかしそれを直接他者に向けてしまうことには抵抗を感じるので、

 

 自分の代わりにやってくれる誰かを心では歓迎してしまうという

 

  屈折した心理が見え隠れしたりもする。

 

 

だからこそ、いじめを目撃しても、

 

 いじめている側を面と向かって非難しようとはしないということにもなる。

 

もちろん、いじめを注意して逆に自分が次のターゲットになったら嫌だ

 

 という気持ちが働いていることも少なくないが、

 

 それさえも自分がストレスでいっぱいになっていて心に余裕をなくしている証拠とも言える。

 

 

また、その子の家庭内でのストレスが学校生活に持ち込まれて、

 

 ストレス発散のために意識的にいじめているという構図も見え隠れしている。

 

 だから、その本人にだけ教育的指導をしても手詰まりになるだけで、

 

 その背景・基板にある家庭内の根深いストレスに焦点を当てた改善策を検討しなければならない。

 

 

 

けれども、今の学校が家庭に対して

 

 そこまで介入していくことはとても難しくなっていて、

 

 結果的に問題の原因はそのままになってしまう。

 

 

いじめが発覚した場合に学校が通常やることは、

 

 教育員会から「お叱り」を受けないよう、

 

 いかに事態を早く収束させるかのための行動である。

 

 根本的な解決・改善にはあまり関心がない。

 

 

だから、

 

 子どもたちの間で実際に起きている人間関係のもつれや

 

 個々のストレス状態にまで踏み込んでいくことは、あまりしたがらない。

 

 

ましてや、いじめられた側の子どもが抱えている問題性には介入しない。

 

 その問題性とは、

 

  人間関係がうまく作れないこと、

 

  コミュニケーションの仕方や共感性に特性を抱えていて

 

  一方的な思い込みや勘違いから関係をこじらせがちなことなどである。

 

 

 

いじめていた側がその後はいじめ行為を自粛したとしても、

 

 そういう問題性を持っているいじめられ側の子どもは、

 

 必ずまた別の誰かとの間で問題を引き起こしかねず、

 

 そうならないための支援が本来は必要不可欠になるが、

 

  「一件落着」でほとぼりが収まりさえずれば、

 

   そのことはもはや具体的な話題にすらならなくなる。

 

 

 

 

これは、「今の学校がおかしくなっている」のではなく、

 

 社会全体がおかしくなっていることの一つの現れにすぎないことを、

 

 すべての人がしっかりと認識し、問題意識を持つ必要がある。

 

 

とはいえ、学校教育については、政府ー自治体ー学校現場、という構造の中に、

 

 とっくに疲弊し、行き詰まったシステムの問題性があることは明らかである。

 

それは文科省だけのことではなく、

 

 政府各機関が自己保身と旧体制維持を最優先した思考・行動で動いているせいである。

 

 

現状打破のための根本的な改革を目指す人がいたとしても、

 

 その人を取り込んで余計なことはさせないような有形無形の全体圧力が働き、

 

 仮りに強行突破しようとしても双方の妥協点で折り合いをつけて、

 

 ほどほどの所で済ませるという形にしてしまうのが落ちである。

 

 

戦後の日本の問題というわけでもなく、

 

 それ以前からの日本の集団同調圧力の中で、ずっと続いていたものでもある。

 

 

太平洋戦争での軍の間違った判断が戦後に指摘されても、

 

 いつのまにかうやむやにされまた同じようなことが繰り返されているのが

 

 日本社会の現状と言っても過言ではない。

 

 

 

 

ここで、人はなぜ他者を攻撃するのか?を考えてみる。

 

 

「力」とか「暴力」というものを社会はどのようにとらえ扱ってきたのか?

 

 大人は子どもに対してそれをどのように教育してきたのか?

 

 

 

 動物である人間の生存本能として「攻撃行動」があると言われていたが、

 

  本当にそうだろうか?

 

  生物学的な進化論が、仮説ではなく既に間違いであったことは

 

   諸外国では共通認識になっているのに、

 

  人間にはそういう本能があると本当に科学的に証明できるのか? 

 

 

 

攻撃行動は、

 

 本能ではなく、「社会的行動」そのものなのである。

 

 

つまり、他者を攻撃するという行動、

 

 たとえば、叩く、蹴る、物をぶつける、言葉で傷つけるなどは、

 

 どれも周りの誰かがそうしているのを見て、

 

  それが有効・効果的な法方法だと間違って学習してしまった結果なのである。

 

 

 その多くは、家庭で親がやっていること、

 

 あるいは兄弟の誰かがやっていることを真似したものであって、

 

 それ以外では家庭外の社会集団(保育所、幼稚園、学校など)で見たものを

 

  自分もするようになったものである。

 

 

 潜在的な攻撃性というのは、

 

 そういう行動を見聞きしたものの、

 

  それは適切ではないと感じて自分では採用しなかったものが、

 

  そのときのさまざまな深い感情と結びついて潜在化したものであって、

 

  生まれながらに本能的に持っていたものというものではない。

 

 

 

 「力とは何か?力はどのように扱い、そしてコントロールしていく必要があるか?」

 

  についての教育がなされずにきていると感じる。

 

 「力」イコール「暴力」という間違ったとらえ方が強くなり、

 

「体罰」は暴力そのものとみなされ、

 

 家庭においても学校においても排除されてしまい、

 

 一人一人の人間が幸せに生活できるようにするために大人や社会が行使すべき「力」さえも

  行き場を失ってしまっている。

 

 

 力は適切にコントロール(外的コントロールと内的コントロール)しないと、

 

  どんどん間違った方向へ向かいだして、

 

  意識化されにくい状態となって「闇」化していく。

 

 

 

学校は、今や「力」に対してはほとんど無力で無能になっている。

 

暴力への対処の仕方が学校の中ではきわめてあいまいで、

 

 もう何十年も基本的な解決にはならない偽解決でしかないようなものになっている。

 

そこに潜在する問題、闇の根深さは、

 

 単に学校教育という枠組みだけのことではなく、

 

 社会そのものがあいまいにしてきた結果である。

 

 

校内暴力は、学校がそうやってごまかし続けてきた闇の噴火である。

 

 

校内にはびこる暴力

 

(低学年の子どもが当たり前のように学校では他の子を叩いたり蹴ったり、悪口を言ったりしている現状)に対して

 

  教師は本気で手を打とうとはしない。

 

「暴力はいけません」と説諭して自覚させていこうとしても、

 

  低学年の子にそれができるのか? 

 

 

 いじめの問題も同じで、

 

 いじめっぽいことが発覚した際に、

 

   教師がすることは何か、

 

   学校が、管理職がしていることは何か?

 

    どれも根本的な解決を図ろうとしているようには見えない。

 

 

結果的に、目に見える所からは姿を消して、

 

  陰で同様な陰湿ないじめを展開し続ける。

 

 

そうなることが当然なのに、

 

 学校はそこにはもう目を向けようとしない。

 

 

こうして潜伏化し、

 

 子どもたちも自分たちの暴力性に対する適切なコントロールの仕方を学べないまま、

 

 どこかで発散的・爆発的に暴力行動に向かってしまう。

 

 

 

このように考えていくと、

 

 「いじめ」という問題行動が、

 

 学校現場で本当に適切に対策が講じられているのかに疑問を持たざるを得なくなる。

 

 

それは、何より大人自身が、

 

 自らの心の闇をごまかしながら、

 

 事なかれ主義的な紋切り的な改善策しか取らずにきているから

 

  なのではないかという気がしてくる。

 

 

大人自身が、大人社会自体が、

 

 この問題に真摯に向き合って根本的な解決努力をしていくべき

 

  大きな社会問題であると考える。

 

 

 

 

実は、このことと、「虐待」という問題とはかなり類似した社会現象であると思っている。

 

 

「虐待」を防止し改善していくための法律は制定されているが、

 

 それが実際にどのように実施、運用されているのかを

 

 世間のほとんどの人は知らないのではないだろうか。

 

 

   児童相談所が本当にきちんと機能していのか?

 

 

児童相談所というのは、

 

 あくまで「福祉」という枠組みの中でのサービス事業が基本的な業務であって、

 

 虐待防止のための施策についてはまだまだ不慣れな場合が多い。

 

法律ができて児童相談所がその中核的な役割を担うことになったものの、

 

 それを適切・的確に推進していくためのマンパワーが絶対的に不足したままである。

 

 他の適当な機関がないので単に一方的に児童相談所に押しつけられたという印象もある。

 

 

児童相談所が普段どのような仕事をしているのかを具体的に理解している人は

 

  かなり少ないのではないだろうか。

 

 

子どもが虐待の疑いで児童相談所に係属した場合に、

 

 どのような手続きなり指導が展開されているのだろうか?

 

 

時々耳にするのは、

 

 「保護者に対して注意喚起した。保護者も分かったと答えた」とか

 

 「子どもが家庭に戻りたいと言った」ことを理由に、

 

 「経過観察」というよく分からない言葉で、

 

  子どもが再びその家に戻っていったという話である。

 

 

子どもを強制的に家庭から引き離して生活させることにするのはごく一部である。

 

というのも、肝心の受け更が社会に整備されていないからである。

 

 

仮りに児童福祉施設に入ることになったとしても、

 

 その後どのタイミングで、どういう判断で

 

 家庭に戻すのかが世間には知らされていない。

 

 

 

社会全体が、つまり大人たちが、

 

 いじめや虐待といった社会的問題に無関心であること、

 

 自分には関係のないことととらえているという、

 

 この現象自体が、

 

 いくら対策を講じても一向にいじめや虐待が減ることはなく、

 

 逆に増加の一途にあることの、

 

  最も本質的・根本的な原因であることを

 

   改めて私たちは自覚する必要があるのではないだろうか。