12月23日・24日・25日は、アルバイト先のホテルに住み込みで働いていた。

働いては飯を食らい、そして寝る。
起きたら飯を食らい、そして働く。

そんなことの繰り返しである。

人がSEXしてるときに、私どもは皿を洗うのだ。

恐らく、あの日、2000人くらいが一つの場所でSEXに興じていたことだろう。

どうやら私の現時点の体力では、

立ちっぱなし、動きっぱなし、休憩なしだと、連続13時間の労働が可能だということが分かった。
13時間を超えると、脳のブレーカーが自動的に落ちる。

3日間で何時間働いたのか覚えてません。
「愛・覚えてますか?」
40時間くらいまでは記憶があります。

しかし、コックさん達は不眠不休で48時間労働をしていた。

不眠不休で48時間労働をすると人間はどうなるのか?

笑うのである。
笑うしかないのである。
下半身から込み上げてくる笑いを抑えることができないのだ。

そこで、1つの仮説が立てられる。

「笑いを抑制する一つの要因は理性である」

理性がなくなると笑いと性衝動と食欲が残るのではないか?

だからこそ、酒やマリファナは、人間を笑いに誘うのではないのだろうか?


この仮説を実験で検証することは倫理上困難である。
しかし、この仮説が証明されれば、私はベルクソンを超えられるだろう。

だいたい、ベルクソンの『笑い』に引用されてる例が古すぎて笑えない

という矛盾をクリアしない限り、『笑い』を証明したことにはならないでしょうが。


すべての仕事が終わった後、洗い場と調理場の間に何かしらの友情が生まれたことは事実である。
いつもいがみ合っていても、今回だけは笑いを通して解りあえた気がする。

みんなで飯を食いに行き、26日の早朝に家に帰還した後で、

私は立花隆ばりに「戦士の休息だな」と呟いてから布団に入った。

私はベルクソンを超え、立花隆を凌駕できたのではないかと勘違いしてしまった。

そんな極限を超えた私に待ってるものは、超回復以外にありえないだろう。


[今回の参考文献]

笑い/アンリ・ベルクソン
¥630
Amazon.co.jp
耳をすませば
¥3,860
Amazon.co.jp
超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか
¥7,020

ここ数年、臨床心理士の門戸が拡大している。

心理学人気とも相まって、臨床心理士の資格を取れる大学院が急増している。

しかし、門戸は広くても就職先がないという現状。
医療の現場でないがしろにされる肩身の狭さ。
民間資格であるがゆえの苦渋。


そんなことが問題となっている。

医療心理師とともに臨床心理士が国家資格になるという案が浮上したが、

厚生労働省と文部科学省の利権争いによる足の引っ張り合いの結果、

法案提出前に国会が閉会してしまうという体たらくぶり。

次は、いつ法案が提出されるのかもわからない状況である。

恐らく、4年制大学卒でも取得可能な医療心理師の方が

先に国家資格になるというのが大方の見方のようだ。

先生方の意見も自分達の立場と相まって、バラバラである。


我が大学の心理学科を見下しているS教授は、
カウンセラーなんてくだらない」と語る。


N先生は、
臨床心理士などという資格は役に立たないから取るな」と語る。


脳科学者のT教授は、
脳のことが全てわかれば、カウンセラーなどいらなくなるし、薬で全て解決できる」と語る。


Y助教授は、
臨床心理士の資格を取れば、大学教員という就職先はある程度保障されている。

さらに、臨床心理士が国家資格になれば、

すでに資格を取っている人も再度試験を受けなければならないが、

既取得者には優遇措置が適用されるだろう。

でも、お金と時間に余裕があるなら医者になった方がいいかも。」と語る。


精神と身体性が不可分だと考え、T教授を批判するK教授は、
臨床心理士は現場レベルでもっと必要だ

脳のことがわかっても身体性をケアするためのカウンセラーは必要になってくるだろう」と語る。


様々な意見が飛び交うが、最も重要なことが忘れ去られていることに誰も気づいていない。
それは、臨床心理士になろうと懸命に勉強している人たちのことである。


彼ら彼女らは、金と時間と労力を惜しみなく費やし、懸命に努力している。


そんな人たちが資格を取得し、いざ働こうと思っても就職先がなかったり、

資格取得に意味がなかったと悟るときの気持ちを理解している輩が、

どれだけいるというのだろう。

臨床心理士を目指す学生からの批判や苦情が少なすぎるのも考えものだ。
もっと発言をすべきは、学生達のはずである。


せめて、彼らの費やした金と時間と労力に見合うだけの見返りを用意する必要がある。
せめて、彼らの努力が水泡に帰すような結果にならないことを祈る。


[今回の参考文献]


脳・心・コンピュータ

¥4,410

Amazon.co.jp




電車内で、もしくは授業中にメールを打っている人をよく見かける。

その行為自体を咎めるつもりはない。

私もよくやるので。



しかし、メールの内容が見えてしまうことがあるのだが、その時とんでもないことに気がつく。


彼ら彼女らは、

無表情であるにもかかわらず、(笑)という記号や顔文字・絵文字のo(^▽^)o

などを使っていることがある。



つまり、メール上の感情と実際の感情との間には、ズレが生じている可能性がある
ということである。


もしくは、実際には感情が起こっているものの、メールに感情表出を媒介させるため、

顔の筋肉を動かすには至らないのかもしれない。

もしくは、すでに表出が起こったが、メールを打つ頃には表出が終了しているのかもしれない。


いずれにせよ、メール上の感情と実際の感情には時系列的なズレ・物理的なズレがあることは確かなようだ。


もちろん、(笑)と打ちながら本当に笑っている人がいたら微妙である。

だが私は、(笑)という文字が送られてきた時、相手が本当に笑っているのかと疑う。
他の顔文字や絵文字にしても同じだ。

(笑)と送られてきた時は、たいして面白くないという法則も成り立つ。


しかし、そのような顔文字・絵文字を打たないと、冷たいメールだと思われてしまうことがある。

メール上の感情と実際の感情はズレている可能性があるのに、

冷たいメールだというのは何とも皮肉な話だ。


メールに冷たいも暖かいもないと思うのだが、そんなことも言っていられない時代のようである。

まったく、生きづらい世の中のようで。

移動の手段として高速バスを利用することが多い。

学生にとって、格安の高速バスは非常にありがたい。


しかし、である。


高速バスでは、様々な争いが巻き起こる。

まず、座席のリクライニングをどこまで倒せるかという戦いである


これは、後部座席の人の領域を踏みにじり、空間を占有し、

いかに自分の領地を拡大するかという群雄割拠の戦国時代のような争いなのだ。


これに打ち勝たなければ睡眠が妨げられ、

後の活動に支障をきたす恐れがある。

1つには、後部座席の人に声を掛け、

ある程度の領域を拡大するという戦略がある。


しかし、これでは後部座席の人に気兼ねして、

限界まで座席を倒す事ができない。

人間は、いったん関係性を構築すると他人を意識してしまうものだからだ。


つまり、この戦略は協調的参入に等しい


もう1つには、声を掛けずにいきなり限界まで倒すという戦略がある。


これは
敵対的参入であり、自分の効用を最大にする事が可能である。
しかし、後ろの人が不快に思うことは免れない。


なお、敵対的参入をするが、後部座席の人のことを少々考慮して、

限界までは座席のリクライニングを倒さない戦略もある。


いわば、
参入の折衷案である。


次の争いは、隣の人との領域争いである。


本来、座席の中央の肘掛は領域を区切るためのものである。
しかし、どちらが中央の肘掛に肘を掛けるかは、重要な問題であろう。


微妙な肘鉄合戦を繰り広げるのも有効だが、

一般的には早い者勝ちという暗黙のルールが存在する。

なぜなら、中央の肘掛は一人分のスペースしかないからだ。


中央の肘掛がないタイプの高速バスの場合、

どちらが座席のスペースをより多く確保できるかの争いは、熾烈を極める。

まさに、ミリ単位の争いであり、一瞬たりとも油断を許さない。



しかしながら、予想外のトラブルは、いつも発生する。

今回の移動では、車中で唯一いびきを掻く男が私の隣に座っていたのだ!


さりげなく肘でガスガスしてみるが、一向にいびきを止める気配がない。
こうなったら、忍法狸寝入り!

おかげ様で、約5時間の高速バスの移動中、ほとんど安眠できない状態であったとさ。


[今回の参考文献]


ミクロ経済学 戦略的アプローチ/梶井 厚志

¥2,415

Amazon.co.jp


NARUTO (巻ノ13)/岸本 斉史
¥410
Amazon.co.jp

今回は、「悲しみしょぼん」という情動を取り上げよう。

広辞苑によると「悲しみ」は、泣きたくなるほど辛いこと、心が痛んで耐えられないこと、とある。



では、心理学において「悲しみ」という情動は、どのように考えられているだろうか。

ジェームズ=ランゲ説(末梢起源説)では、

末梢における身体的・生理的変化が主観的情動経験を引き起こすとし、

泣くから悲しいと捉えた。


一方、キャノン=バード説(中枢起源説)では、

情動経験における中枢神経系の作用を重視し、悲しいから泣くと捉えた。


これらは、シャクターの情動二要因論、パペッツの情動回路、

ルドゥの二重経路説、ダマシオの脳モデルなどに発展していく。



悲しみという情動には、しばしば涙という表出がつきまとう。

涙は哀しい時にも、嬉しい時にも、悔しい時にも、笑いすぎた時にも、欠伸した時にも流れる。
あと、目が渇いた時とか、痛い時とか。


人間において、排出行動は往々にして快感を伴うものである。

嗚咽混じりの涙は辛いだけだが、涙を流すという排出行動にも快感を伴うことがある。


涙を流した後にスッキリすることがあるのは、恐らくこの快感が関与しているのではないだろうか。

ゆえに現代の多くの人々が、涙を欲しているのではないか。


しかし、ドーパミンが大量に分泌されることで生じるとされる幸福感には、

否定的な感情の不在が必要条件である。



悲しみと幸福感は矛盾する情動だが、

人間は、悲しみを幸福感に変えることもできる。


悲しみから幸福感を追求するという、人生の楽しみ方もあるのかもしれない。



[今回の参考文献]


ビジュアル版 脳と心の地形図―思考・感情・意識の深淵に向かって/養老 孟司

¥2,520

Amazon.co.jp


新・心理学の基礎知識

¥3,780

Amazon.co.jp

図説 心理学入門
¥1,890
Amazon.co.jp