心理学の理論は、わかっていてもそのようにしか知覚出来なかったり、

錯誤を犯してしまったり、ほぼ自動的に処理されてしまう頑健なものが多い。


例えば、ギャンブルが好きな人は「次こそ当たるはず」と言ったりする。

これは『賭博者の錯誤』に陥っている可能性がある。
そして、彼は『変率の強化スケジュール』により強化されているのかもしれない。

こんな人を見かけたら呆れないで、「儲かったら風俗を奢ってくれ」などと言い、親指を立ててみる。


会社の採用担当者やOB・OGを見ただけで「この会社は自分に合っている」などと言っている人は

『サンプルサイズの考慮不足』の虚偽を犯してしまっている。

彼は、ほぼ自動的に『利用可能性ヒューリスティック』を用い、情報処理能力の節約をしているのだろう。
しかし、自分も同じ過ちを犯しがちだということに気づかされる時もある。
そんな時、「人事は会社の顔だしね」などと言い訳し、親指を立ててみる。

こんな言い訳も、『セルフ・ハンディキャッピング』により他者からの否定的評価を避けるためだ。


このように、心理学を勉強すると他人や自分に優しくなれる。
イライラや怒りが解消されることも多い。

しかし、注意しなければならないことは、理論は万能ではないということである。
現実世界において理論では説明できない例外など無数にある。

理論を当てはめて考える時は、慎重に行う必要がある。


*これらの応用に関しては、私の独断と偏見が多分に含まれています。


[今回の参考文献]


考えることの科学―推論の認知心理学への招待/市川 伸一

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通夜や葬式には、未だに馴染めない。

通夜では親族が一同に会し、死者の入った棺の前で酒を飲み、

大いに語らい、大いに笑う。

しかし、葬式の朝、棺に釘を打つ時になって初めて泣く人たちがいる。
前日は、あんなに笑っていたにもかかわらず。


火葬場で死者を焼く間際、最後のお別れだと言って、こぞって死者の顔や体に触る。

私は不謹慎ながら、死者の体のあまりの冷たさに驚き、鳥肌が立った。 

死者は間違いなくタンパク質の塊にすぎず、1時間後には骨と灰だけになっている。


人生で何度目かの通夜の席で、

ある親戚が怪訝そうな表情を浮かべている私に対し、こう言っていた。

「死者の前で大騒ぎをするのを不謹慎に思うかもしれない。

でも、これはこれから死出の旅に出る死者が寂しくないようにするためなんだ」と。

しかし、それは恐らく、十分な理由ではないと感じた。


通夜で大騒ぎをするのは、死者のためであると同時に自分たちの心を慰めているように見えるからだ。


お墓の前で合掌するのは、死者を弔うと同時に自分の心を救うためではないか?
死者に対し言葉を投げかけるのは、同時に自分の心へ言葉を投げかけていることなのではないか?

そんな気がしてならない。


通夜も葬式もお墓参りも、半分は死者のためで半分は生者のために用意された儀式だという思いが強い。


あ、お墓参りに行こうかな。


[今回の参考文献]


死に至る病/キェルケゴール

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かつて、この世の全ての知識を手に入れたいと願った時期があった。
膨大な量の知識が広がるこの世界に、心を躍らせたことがあった。

しかし、ほどなく思い知らされることになる。

自分の記憶力の限界と、

無限とも思えるほど膨らみ続ける知識の泉に直面するたび、途方に暮れるのである。

一人で何もかも手に入れようとするなど、傲慢な考え方だと思うようになる。


『知識』というものに対し、対照的な考え方をした人物がいた。
夏目漱石と小林秀雄である。

夏目は典型的な悲観主義者であり、

この世の知識のあまりの多さに愕然とし、虚無感に苛まれたという。

一方、小林は典型的な楽観主義者であり、無限の知識の泉は言い換えるなら、

自身の知識欲を満たす機会も多分に存在すると捉えていたという。


確かに、わからないことがわかるようになることは喜びに繋がる。

そのわからないことが、ほぼ無限に存在するということは、

それを知るときの喜びもほぼ無限に存在するということになるだろう。


だが、私にとってこの二人の考え方は、何の解決策にもならない循環論にすぎない。

重要なのは、二人に共通する知識への渇望・飢え・欲求である。


自らの知識欲に素直に従えばよい。
ただ、それだけのこと・・・

そこには悲観主義も楽観主義も必要ない。
ただ、それだけのこと・・・

自分らしい表現、オリジナルの言葉、個性・・・

そんなものは存在しないというのが、私の見解である。


尊敬する木村敏先生によれば、

本当の意味での個性とは誰にも理解されないことであるという。
本当に個性的な人とは、精神病患者のことらしい。


それは極論としても、誰かに受け入れられないものなど意味がないことは確かだろう。
本当に個性的であるためには、耳と目を閉じ口を塞いで孤独に生きるべきだ。


そもそも、言語を介在する表現とは言葉の組み合わせであり、

それらは言語が生まれてから繰り返されているのだから、

どんなに巧みに言葉を紡いでも限界がある。


人間は生まれてから、先達の言葉、国語の教科書、小説、歌(詩)、様々なメディア

などに接しないわけにはいかない。



つまり、自分がどんなにオリジナルな表現と思っても、

それらの影響を全く受けていないとどのように証明すればいいのだろうか。

さらに、もともと言語とは受け継がれていくものだから、オリジナルな表現などあるはずもない。


盗作というのも、少しでも表現を変えれば盗作ではないと考える。
現状は、そうもいかないようだけれでも。


結局、表現とは誰かに受け入れられるためのもので、

ある程度の共通の理解が必要であり、そのためにはオリジナルなどと言うべきではないということだ。


自分らしい表現などと言わず、もう少し謙虚さを持って表現してほしい。

こんな私の見解ですら、恐らく誰かの影響を受けているのだろう。


[今回の参考文献]

異常の構造/木村 敏
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ライ麦畑でつかまえて/J.D.サリンジャー
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フロイトの発達理論によると、新生児から思春期頃にかけて、

小児性欲が統合されて成人性欲へと発達していくという。

その発達段階は、

口唇期(0歳~1歳半頃)

肛門期(1歳半~3歳頃)

男根期(4歳~6歳頃)

潜伏期(学童期)

性器期(思春期頃~)

というように分類されている。

他にもフロイトは、去勢不安や男根羨望(男根欲求)など、

エロスの塊のような発言をすることで、私を喜ばせている。


私は、特に男根期に深い思い入れがある。

男根期には、小児性欲が頂点に達し、性器への関心が高まり、

異性に興味を持ち始める時期である。

私が保育園児だった頃、

年長組はプールに入るときに全裸にならなくてはならないという規則があった。
これは男性にも女性にも適用される普遍のルールであった。

私は嬉しくて、意味もなく水の中に何度も潜っていたことを覚えている。

今思えば、これは異性の体の構造が違うということを学び、

正しく異性と向き合うための時間だったのかもしれない。


今となっては、どうでもいいことである。
フロイトの理論が、アド・ホックなものだということもどうでもいいことである。


最近、ある若い女性の先生が、男根期について「何とも物騒な名前ですね」と語っていた。

妙に納得してしまい、爆笑してしまった。

そうか、男性の象徴は物騒なものなのだな。
どうりで、マグナムとかいう名前がつくと思った。