通夜や葬式には、未だに馴染めない。

通夜では親族が一同に会し、死者の入った棺の前で酒を飲み、

大いに語らい、大いに笑う。

しかし、葬式の朝、棺に釘を打つ時になって初めて泣く人たちがいる。
前日は、あんなに笑っていたにもかかわらず。


火葬場で死者を焼く間際、最後のお別れだと言って、こぞって死者の顔や体に触る。

私は不謹慎ながら、死者の体のあまりの冷たさに驚き、鳥肌が立った。 

死者は間違いなくタンパク質の塊にすぎず、1時間後には骨と灰だけになっている。


人生で何度目かの通夜の席で、

ある親戚が怪訝そうな表情を浮かべている私に対し、こう言っていた。

「死者の前で大騒ぎをするのを不謹慎に思うかもしれない。

でも、これはこれから死出の旅に出る死者が寂しくないようにするためなんだ」と。

しかし、それは恐らく、十分な理由ではないと感じた。


通夜で大騒ぎをするのは、死者のためであると同時に自分たちの心を慰めているように見えるからだ。


お墓の前で合掌するのは、死者を弔うと同時に自分の心を救うためではないか?
死者に対し言葉を投げかけるのは、同時に自分の心へ言葉を投げかけていることなのではないか?

そんな気がしてならない。


通夜も葬式もお墓参りも、半分は死者のためで半分は生者のために用意された儀式だという思いが強い。


あ、お墓参りに行こうかな。


[今回の参考文献]


死に至る病/キェルケゴール

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