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ミナミのブログ

のんびり、、まったり

■ 2002/07/05 (Fri) 横濱俳句倶楽部ほのぼのとから 

 

小学校の同学年の子のお父さんにホテルの支配人がいた。
ある時、山下公園の前にあるそのホテルの

お父さんのお仕事場に訪ねて行った。

どのような理由であったか覚えてもいない。

温和な顔のそのお父さんは

子供達の突然の来訪に

嫌な顔もせずに、出迎え

そして、お仕事に戻って行った。

それから、元町の途中にある大きな椅子を

あれはうちのお父さんが作ったんだよ

という同級生の言葉に

何を思ったか

その椅子を同級生のお父さんに返してください

と抗議に行ったこともあった。

ホテルの支配人さんがその後海外のホテルに行かれたのが

そのことのせいだったとは思えないけれど

今省みると、随分失礼なことをしていたと思う。

一応、念のために申し上げておきますけれど

これは単独行動ではありません

何名かの同級生と実行したことであります。

首謀者が誰であったか、覚えてはおりません。

このホテルは戦後アメリカの占領下にあり

マッカーサー氏が滞在していたという。

そして、それより十数年前には

大佛次郎という小説家が十年間滞在していたそうだ。

ホテルの中には

その彼が立ったままバーボンを飲んだというバーがある。

サザンが唄っていた

LOVE AFFAIR~秘密のデートの中に出てくる

シーガーディアンだ。

今は、セカンドという付箋がついて

様相も少し変わったけれど

ホテルの宣伝文句によると

「重厚な雰囲気のなか、

濃密な大人の時間が流れていく英国調の正統派バー」

なのだそうだ。

グラスを交わす音までも聞こえる静かなバー。

バー、というのは

もともと、仕切り、障害物のことだそうで

酒場の台

カウンターのこともバーということになり

ここから酒場のことをバーというようになったのだそうだ。

また

裁判官席と被告席・傍聴席を仕切る柵のことを

「the bar」と呼び

そこから裁判所そのものもthe barといい、

さらには「裁判所」で「妨害」をする法廷弁護士業も

the Barと呼ぶそうだ。

確かに静寂を要求される。

そのホテルは昭和27年6月30日に

接収を解除され

同7月5日、再開している。

海の見える318号室は

「鞍馬天狗の部屋」と呼ばれている。

ここの日本料理のお店のお弁当はアレンジが可愛い。

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このホテルは俳句を嗜む伯母の行きつけの店であり

 

ホテルに着たおばに呼び出されて

母と行ったことが有るが

 

二階の、山下公園越しに海の見える席で待つ伯母は

そこが自分の定席だと話していた

 

伯母の夫の伯父はいったい何をしていた人かは知らないが

マッカーサーが見える以前に

このホテルやデパートなど手配し

後に伯母がそれらの店に行くと

伯母は現金を支払うことなく、またデパートでは

荷物を持って帰ることなく

 

ところが伯父が亡くなった後

その全てのサービスが絶えたと

嘆いていたと母が気の毒がっていた

 

しかし、企業のサービスとはそんなものだと思う

 

最終的にはその人ではなく

人物と関わっている

そういうことなのだろう

 

どれだけ回数を重ねて飲みに行ったとしても

単なる顧客に過ぎないが

著名であればたった一度でも

名前が刻まれたりする

 

通念に渡り毎日通うラーメン屋のカウンターに

一般人の名前が貼られるとしたら

出禁か

若しくは大食いで記録を建てた人くらいだと思うし

 

嘗て夫の会社が数億の売り上げが有った頃

会社にも多くの人がやって来て

とても親切にしてくれた

 

休みの日には個人的な服装で訪ねて来たり

 

それを、自分という人間の魅力に寄って来ていた

そう思うと

そうでないときの自分に対して卑屈になっていく

 

しかし、人物に寄って来ていたのだと思えば

何の苦にもならない

 

やどかりが自分の身体に合わせた貝を選ぶように

人もまた自分自身が持っているもので

自分を自覚すれば

処遇の違いに腹が立つこともない

 

自分の力ではない誰かの力に頼れば

身体に見合わない貝に暮らすことになる

 

夫が会社を経営し始めた頃

休みの度に我が家に来て

従業員たちが釣ったり獲ったりした

蟹や魚の料理を食べに来ていた監督さん達は

夫が会社を経営していた30数年間

会社を失くして20年近くなった今も

全く変わることなく

 

ネットを通して近況を伝えて下さり

時には相談に乗っても下さる

 

ホテルの前を通るたびに

伯母の小さな嘆きを思い出して

 

人の世は厳しくもあり優しくもある

そんな悟りを拓いている

 

最初から相手に過剰なことを求めていなければ

対応の変化などには気が付くこともないと思う

 

 

■ 2002/07/04 (Thu)横濱俳句倶楽部ほのぼのとから

  

2日の日、ベース奏者のレイ・ブラウンが亡くなったというニュースをWEBで読んだ。

ベーシスト。

二年ほど前、友人が自宅の農園でジャズのセッションを開催するというので観に行った。

客席は五分ほど咲いた梅林で、小さな川の向こうの舞台は、真っ赤な椿の花の咲く下に青竹で組まれていた。

時は浅い春。

竹墨を作る竈の匂いと、梅の甘い匂いがほんのりと交じり合って不思議な空間を作っている。


昨夜ニューヨークから帰ったばかりという、髪の黒い女性と、ベルを巧みに操る男性と、、ベーシストは手編みの毛糸の帽子が似合う金井英人。

そのベースの軽妙な音に、自分が何処にいるのか、解らなくなった。

 

が、ここは横浜である。


ジャズは歌もいいけれど、ピアノ、ベース、テナーサックス、トランペットも、いいなあと思う。

シンフォニーが規律正しい説法であれば、ジャズはお喋りなのだろう。

 

場所を選ばない。

野毛辺りでは喫茶店でもジャズが聴ける。

ニューオリンズに生まれ、家庭に恵まれず、祖母の手で育った少年は、孤児院でトランペットを習った。

後に、イギリスの新聞記者に、Suchamouth!といわれたルイアームストロングは、1900年の今日、生まれた。

WHAT A WONDERFUL WORLD

これは、映画、グッドモーニングベトナムの中で歌われた唄。

I see trees of green

囁くように歌うサッチモが好きだ。 

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ジャズが好きなのはおそらく育った環境なのだと思う

 

母が父と別れて、姉達を父の許に残し

鹿児島から横浜の実家に戻った後

祖母から自立せよと言われて

母は米軍のハウスの真ん前で暮らした

 

基地関連の仕事をしていたそうだが

内容を聞いた記憶はない

 

母は女学校を卒業後ビクターの工場で

事務の仕事をしていたそうだから

たぶんそんな仕事をしていたのだろう

 

住まいは4階建てで

水洗トイレとバスルームが同じ部屋にあり

 

トイレはWater closetの名に相応しく

高いところにタンクがあり、鎖を引くと水が落ちて来る

 

だから妹はその度に怯えて泣いていたが

いつの間にか泣かなくなり

日本家屋の和式のトイレを怖がるという

 

幼い子からして慣れというものは侮れないと

しみじみと思う

 

7月4日は、その米軍の母国の独立記念日でもある

 

何処から独立したのか

 

それはアメリカの人達が自由を求めて

大陸に移り住む前の国イギリスから

 

アメリカには自由の鐘というものが有り

今日はその鐘が州の数の13回鳴らされるそうだ

 

私が子どもの頃

7月には20日の海の記念日と

アメリカの独立記念日と

二回花火が打ち上げられて

 

海の記念日の、空一杯に広がる大きな花火と

独立記念日の

音の無く色とりどりに空を染めていく花火と

 

そして二十日からは夏休みで有り

長い梅雨空も晴れて

とても楽しみな季節だった

 

そしてもう一つ

小港の米軍のベースで模様される盆踊り

 

次姉と妹と三人で

本牧に移った祖父母の家に行き

西瓜をご馳走になり

夕方叔母に浴衣を着せて貰って

従兄たちと出かける

 

コカ・コーラとポップコーンとjazzと

ジュークボックスを知った

 

そのお祭りで出会った大人から

日本の少女がズックに赤いペンキで色を塗って

それを履いて基地で歌を披露していたという話を聞いた

江利チエミという人

 

坂本九、ディックミネ、小坂和也達も歌っていたと

 

彼らはその後、日本の歌謡界で長きにわたり

第一線で活躍していた

 

ふと、日本は嘗てどこかの国から独立するという

そんなことが有ったのだろうかと

そんなことが頭を翳めた

 

アメリカの支配をいう人がいるが

進駐軍は全部で12の国からなる連隊で有り

その長がアメリカの長官で有った訳で

目的は日本の軍の敗戦処理であり

 

民主主義という形は

江戸時代にはすでに始まっていたという

学者もいる

 

日本は結局2025年の、皇紀2685年に至るまで

どの国からも政治的、民族的支配を受けてはいない

 

だから独立記念日というものもない

 

日本の何処かが他国のモノで有ったこともない

 

本当に不思議な国だと思う

 

日本人に独身者が多いのは

独立精神にたけているぁらなのかも知れない

 

なんて書くと、Such a stupid と言われそうだが

 

 

※日本の何処かが他国のモノで有ったこともない

 

私はとんでもない勘違いをしていました。

謹んでお詫びして訂正します。

 

日本の沖縄は

1951年のサンフランシスコ条約により

1972年に政権が本土復帰するまで

米軍に占領されていました

 

 

 

 

■ 2002/07/03 (Wed)  

 

中華街の外れにある中学校はとても瀟洒な造りで

一階から三階まで吹き抜けのスロープになっていた。

天井の高いその建物は学校というよりも

何処かの庁舎のような風格でもあった。

何よりも好きだったのは

校庭にある大きなヒマラヤ杉。

夏の暑い日

この木の下で寛ぐのが特に好きだった。

生徒総会のとき,全校生徒が

校庭で大きな輪になって話し合うとき

心なしか、その杉の木も参加しているように思えた。

その生徒総会の真ん中にいる青年は正義感に溢れていた。

生徒会を、先生の管理下から、生徒の下へ。

彼は頑張って主張した。

「子供は褒められれば嬉しいのです」

「でも、責任のある立場に立たなければ、

自分から進んでは何も出来ません」

そう言って、生徒と、先生達を説得していた。

私はそれを新聞の記事にする役割を持っていた。

夕方の教室で記事を作っていると、

文章の校正をしていた彼が

「明日のお昼の放送で読もうと思う」
そう言って一冊の本を読み出した。

それは、カフカの「変身」

謄写版用紙に鉄ペンでガリガリと書き込んでいる私のそばで

彼はそのお話を、誰かに語るように読んでいた。

芋虫になってしまう男。。。

読み終わって

「如何だった?」と聞かれた私の感想は

一言、「薄気味悪い」

彼は、がっかりとした顔で「なんだよう」と笑った。

その彼は、高校三年の卒業の朝

一枚の消印のない葉書を、我が家のポストに入れて

何者かに変身して、世の中から身を隠す人生を選択した。

いつか、彼に、僕の人生、如何だったと思う?と聞かれたら

なんと答えようかな。

今日は変身の作者、カフカの生まれた日だ。

 

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私はこの青年が送って来た一枚の葉書で

その後希望する大学に入れず、自分との思いとは

全く別の道を歩むことになった

 

簡単に言えば、葉書にはある闘争の現場への誘いの文章が

簡潔に綴られていて

 

その後、業界向けとはいえ新聞を発行する会社に勤めて

駅で偶然その人を知る元同級生にあった時

 

貴女は彼の気持ちを分かっていないと言われて

え、っという言葉が素直に出てしまった

 

中学生の時には確かに周りから仲が良いと揶揄われ

お互い、だったらと、山下公園を端から端まで歩くという

所謂デートのまねごとをしたが、それはそれっきりで

その後の彼の誘いは

自身が信じる思想の大会の集まりだった

 

彼の求めていたのは同士で有り、彼女ではない

 

その元同級生は彼女になりたかったのか

同士になりたかったのか聞きそびれたが

その後のクラス会に来ることは一度も無かったので

真意は分からないが

嫉妬されていたのだけは分かった

 

変身の主人公は単なる販売員として暮らしていたのに

ある朝目覚めると

自身の身体が芋虫のようになっていて

いつか目覚めたら、と思いつつ、結末に入っていく

 

今読み返しても、作者の意図がサッパリ分からないのだが

最近YouTubeで中国の短編ドラマを観ていると

途中までは

変身の主人公と同様な理不尽さを強いられるのだが

最終的にその真逆の変身が起きて

主人公は生まれ変わってまで悪を成敗する

 

そうか、この小説を読んで未消化なのは

勧善懲悪というものが存在しないからなのかと

変な納得をした

 

彼女に、貴女には彼の気持ちが分からない

そう言われた日、会社の先輩に誘われて

私は高級そうな内装のお店に出かけた

 

あの人が○○三で、あちらの人は○○さんで

先輩の説明によると、当時文豪と呼ばれた人たち

 

何か造反の雰囲気だったが

後にその人たちの集まりのリーダーにより

内情が変化したという話を先輩から聞かされた

 

その本筋を知ったのは、つい数年前のこと

 

ある芸能のプロダクションを運営する人の夫が

その会の長になり

自身の思うままに形を変えたと

 

その人はある俳人の娘の元夫で

ある人物と同級生

 

そしてその頃からその事務所のタレントは

一般的に日本で一番偉いとされている方の前で

歌を披露していた

 

雑誌の記事なので

どこまでが正しい内容なのかは分からないが

偶然にその会の人達との

食事会の場所に居合わせた自分には

何となく他人事ではないようなそんな気がした

 

そしてその頃の

その事務所のタレントの処遇について

成程、と、妙な納得をした

 

企業のやり方として

自身の伝を最大限に利用することは

別に間違ってはいない

 

そしてその事務所は日本で最大になり

テレビ、雑誌、ラジオ、多くのメディアで

その事務所のタレントを観ない日は無くなった

 

その雑誌には

その事務所のタレントが

メディアで重宝されていたのは

そのタレントを指導する人の手腕で有り

その人はメディアの露出よりも舞台を望んでいたと

そう書かれていた

 

誰でも来ればレッスンに参加させ

自分が認めれば舞台に立たせる

その代金は自腹で

 

だから実際は契約を交わしているタレント以外

どんな人が所属していたかは把握していない

 

会社を経営する人としては完全に失格であり

そのままのやり方で行けばどうだったのか

 

たぶん、今ほどは大きくはならなくても

海外を含めた舞台の上での興行により、

タレント達も海外でより認知されて

全く違う形の事務所になっていたのではと思う

 

それは指導者とされる人が青年時代に

自分が生まれ暮らした家で行ってきた興行の舞台

そのものだったのだろうと思う

 

舞台の上で必要なのは優雅さとコミカルと即興力

 

メディアの中で必要なのは形にはまるタレント

 

その二つがある瞬間から

姉と弟の仲、そして上下関係を大きく乖離させていく

 

私はいみじくもその事務所の変身の瞬間を目撃していた

のかもしれない

 

二人の姉弟がそれぞれに心血を注いだ事務所は

変身の結末と同様な終末を迎えた

 

姉弟は黄泉の世界で

今の様子を

どんなふうに語っているのだろうか

 

人は時にして小さな出会いで

自分の人生そのものを

大きく変身させてしまうことが有るということを

今漸く理解し始めている