■ 2002/07/02 (Tue)
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ある時、急に詩の一節が気になって、詩集を買いに行ったことがある。
山村暮鳥の描いた、先のお猿が賢くて。。という詩だ。
家にある書棚にも何冊かの詩集があるが、生憎、暮鳥のものは無い。
四つの本屋さんを探しても、その詩の載った本どころか、詩集さえ見つからなかった。
五軒目の本屋さんで、詩集は何処にありますか?と聞くと、ほんの少し戸惑った顔をしていた男の子の店員が、ああ、と頷いた形で、私を案内してくれたが、そこには刺繍の本が積み重なっていた。
詰まるところ、詩集は見つからず、私の脳裏のどこかにインプットされた一節は、時折鮮明になり、私に確認を促している。
本棚の中には、何冊かの翻訳詩集もあった。
今日は、その中の一人、小説家で詩人の、ヘルマンヘッセの生まれた日だ。
男同士の友情物語、知と愛、は知と愛そのままに、人格を持たせたようなお話だ。
人はどんなに理解しあっても、補い合っても、決して同じ場所には立てない。
知の象徴であるナルチスを慕い、同じ悟りを持つと言うゴルトムントに、ナルチスは言う。
人の持つ天命は各々、決して交わらないと。
太陽と月、海と陸が近づきあうこのとないように、互いが溶け合うのではなく、互いを認識し、相手の中に、自分の補うべきものを見つけ、それを尊びあう修練をする…。
だから私の言うことを本気に取らないのかと聞くゴルトムントに、ナルチスは答える。
僕が本気に取るのは、君自身であって、君の思想ではない。
ヘッセは「ダミアン」の中で、
現実というものは我々の内にしかない。
これほど多くの人が偽りの生活を送っている原因もそこにある。
彼らは自分たちの外側にあるイメージが現実だと思い込んでいるから、内なる世界から聞こえてくる声に決して耳を傾けようとしない。…と言っている。
外見に惑わされて、真実を見ない。
確かによくある事だ。
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暮鳥の詩だと思っていたのは薄田泣菫の詩であり、中学と高校の修学旅行の時に、奈良の薬師寺の僧侶、
高田好胤の法話として聞いたものだった
中学の時は黒い袈裟懸けのお坊さんから、お寺の回廊から、高校の時は座敷に正座して、美しく袈裟懸けの僧侶から、であり。
外見に惑わされて、真実を見ない。
横濱俳句倶楽部の文章を書いている頃より数年前、丹沢辺りにドライブに行き、この先に道が無くなりそうなところに差し掛かると
木造の建物を見つけて車を降りると、右側の藪のなかから、何かが横切り、がさかざと音がしたので、夫が、雉でもいるのだろうと言い出し、子ども達が鳴き声を真似た
すると、再びがさがさと
それを見ながら、建物が気になり、近くに行くと、反対側はバスのターミナルで、多くのハイカーが椅子にかけてバスを待っていて
その椅子に主の無いリュックと気まずい顔の母子が
藪の中の音は、雉撃ちだったようだ
藪の中の音はしゃがんだまま横に隠れたのだろう
岳という本を愛読していた私は慌てて戻り、夫に説明をして車に乗り込んで、その場を離れた
夫はてっきり雉だと思って、口笛を吹いていたと、苦笑いし、そのうち大笑いしていた
子ども達は白かったから兎だと言い
雉撃ちしていた人はさぞ驚いたことだろうと思いながら
公園の東屋だと思い込んで回り込んださきにいた、大勢の人と視線が合った時の恥ずかしさが蘇ってくる
三匹の猿/薄田泣菫
向う小山を猿がゆく
さきのお猿が物知らず
あとのお猿も物知らず
なかのお猿が賢くて 山の畑に実を蒔いた
花が開いて実が生(な)れば、 二つの猿は帰り来て 一つ残さずとりつくし
種子をばまいた伴(つれ)の名は 忘れてつひぞ思ひ出ぬ