ミナミのブログ -27ページ目

ミナミのブログ

のんびり、、まったり

■ 2002/06/29 (Sat) 会社のHPの管理人室の文章から

 

1966年(昭和41年)6月29日

午前3 時40分羽田空港に一機の日航機が到着した。

出迎えの中に居たのは、三橋美智也。

タラップを降りてきたのは、祭の法被を着た4人の男。


♪目を瞑ってよ、キスするから
明日は君のことを思って寂しくなるだろう

いつも君のことを思っていることを忘れないで


それから離れている間
毎日手紙を書くよ   

君を思う気持ちを全部送るよ♪ 

=ALL MY LOVING=

そう、今日はビートルズが来日した日。

と、書いても、残念ながら

私はこの当時グループサウンズというものに

一切興味がなかったので

正直に言って何の感慨もないのだ

 

理由は、丁度受験勉強の頃に差し掛かったのと

自分の生活圏内に何人もの

そのグループサウンズになった人がいたからであり

 

余りにも身近過ぎ

近所のお兄さん達をテレビで見たり

歌を聴いたりするのが恥ずかしいというのもあった

ただ、先ほどの歌を(もちろん英語で)耳元で囁かれたら

一度で相手に夢中になってしまうかも知れないとも思う。

同じ今日私の知人が誕生日を迎える。
彼女と初めて会ったのは、彼女が小学四年生のとき。

紺の短パンの似合う、可愛い子だった。

同じ場所で毎日会い

やがて、親しくお話をするようになった。

あるとき

県の主催するアマチュアの試合に無謀にも参加した。

そこに中学生の彼女も参加していた。

途中、私を見つけた彼女は

たくさんのプレスの人を連れて、声をかけてきた。

私、ワンオーバーだったよ!
おばさんは幾つ?

私はめいっぱい大きな声で自分の歳を答えた。

おばさん凄いね!
彼女は感嘆の声を上げた。

今、彼女は世界を舞台にして戦っている。

=============================

時が過ぎるのは速いもので

今自分の年齢を言えば

エイジシューターとして

仲間からお祝いしてもらえそうだ

 

今はもう道具自体処分してしまったので

コースを回ることもないと思うが

毎日の生活の中で、何かに疲れた時に

時々、コースを歩いていた頃の風を思い出す

 

風の動きでボールの弾道を決めるなどという

高尚なことでは無く

今頃の暑い夏の日

自分の身体をさっと抜けていく爽やかな風

 

そしてこの風を思い出すと

本牧のマンションにいた頃に乗った

タクシーの運転手さんを思い出す

 

この人は

マンションの近くの営業所に長く勤めている方

 

ある時山手駅からマンションに帰るためにタクシーに乗り

行き先を告げると、住所を聞いて

昔この場所にお祭りの好きな○○ちゃんという人が

という話を始めた

 

そのマンションは嘗て母の実家が有った場所

そしてそのお祭りの好きな人は私の叔父

 

○○○ですよね、というと、運転手さんは少し驚いて

しかし、懐かしそうに

そうです、凄くいい人で、と

 

そして、○〇ちゃん

ア、すいません、みんながそう呼んでいたもので

 

一応、親戚の私を気遣いながら、その先に

 

おさちゃんは常に内ポケットに

チャカを入れていたんですよ、と

 

一緒に乗っていた娘が小さな声でチャカ?と言ったのが

聞こえなかったのか

その人は叔父が何故チャカを内ポケットに入れていたのか

ということを延々と話していた

 

母の話ではその叔父が若い頃から多くの人に好かれて

祭りになると神輿の上を飛んで跳ねて

集まった若い女性が悲鳴を上げるくらいだったとは

聴いていたが、身内の自慢話なので話半分に思っていた

 

それがまさか見知らぬ人から30分近く

叔父に対する誉め言葉を聞かされると

何故か妙に法被を着て神輿の上を跳ねる叔父の姿を

見たくなった

 

法被と言えば祭りだが

祭りの、盆踊りは夜、篝火の中で行われたそうで

学者によっては男女の発展場だったという人もいるが

一人の民族学者によると

薄明かりの中で亡くなった人と似た面影を見つけて

その亡くなった人のことを偲ぶ目的が有ったとか

 

一昨年、陸前高田で何年振りかに復活したという

動く七夕祭に行ったとき

車椅子に乗られた方が私の顔を見て驚かれていた

 

私はたぶん

その方の知る

誰かに似た面差しだったのだろうと思う

 

津波で何もかも消えて、全てが新しい街の

一角だけ賑やかで、その少し先は黒い闇の

不思議な空間の中で

読み解けば、たぶん、犠牲になられた

どなたかのことであり

悲しい話ではあるけれど

 

車椅子に乗られた高齢の方が少し驚いて

そして微笑んで深々と会釈をしたその姿に

 

私は誰かの思い出を繋ぐことが出来たのだろうと

そう思えて、胸が温かくなった

 

思い出というものは

あの時のコース上での風のように

ほんの短い時間であっても

ずっと心に残っていくものであり

その思い出が誰かの中に残り続ける限り

その人の人生もまた有り続けるのかも知れない

 

そういう気持ちが一つの天国なのだろうと思った

 

生きているうちに

例えば罪を犯したとしても

誰かの思い出の中で輝いていれば

その人の存在は昇華されて行く

 

良い人生とは

生きて来た中での功罪などではなく

どれだけ多くの人の思い出になったか

ということなのだろうと

 

そしてその人を思い出す人が

誰も居なくなったとき

その魂は無と化していく

 

一方で、誰かの心身に傷を付けたり罪を犯せば

他の誰にも知られなくても

例えばどれだけ謝罪しても

自分自身の中で未消化で終わる

 

そしてそれは脳の中の記憶の蓋が消えた時に

鮮明に襲ってくる

そのこと自体が地獄の時間なのかもしれない

 

そう言えば、いけなかったクラス会で

小学一年の時に虐めた同級生は

相変わら虐められた子子から責められていたそうで

 

次回、十年先

クラス会があるかどうかは分からないけれど

恐らく存命なら

その時もまた苛めの話題が出てきて

彼は一生そのことを背負って生きていく

既に生きて来たことになるのだろう

 

己の人生において賞罰を与えるのは自分自身で有り

宗教や法律というものは単なる慰めに過ぎない

 

法被を着て

威勢よく神輿を担ぐ人たちの姿を見ていると

 

そんなふうに思う

 

叔父の胸ポケットのチャカは

戦後の混乱期の港にはいろいろな

船舶のおじと撃ち合いをするような人たちが

いろいろな地方や国からやって来て

喧嘩になった時に止めるために使うもので

引鉄を引いたという話は聞かなかったですと言われた

 

叔父がその方面のことで

刑務所に入ったという話は聞いたことが無いので

たぶん引いたことは無かったのだろうと思う

 

私の知る叔父は

何処までも優しくて笑顔の可愛い叔父さんだった

 

 

■ 2002/06/28 (Fri) 横濱俳句倶楽部ほのぼのとから

 

饅頭怖い、という落語がある。

何にでも知ったかぶりをする鼻持ちならない男を

やっつけようと思った輩が

お前の好きなものは、と聞くと、饅頭だという。

喜んだ連中は、早速饅頭を買ってきて

その男を酔って寝かせて

その枕もとに山ほどの饅頭を置く。

目が覚めた男は案の定、饅頭怖い!と、騒ぎ出す。

しめしめ、してやったり、と

覗くと、どうも勝手が違う。

背中を向けたその男は、怖い怖いと言いながら

せっせと饅頭を食べている。

呆れた連中が、本当は何が怖いんだと聞くと

お茶が怖い、という、下げだったと思う。

下げではなく

私は甘味料的な甘いものがあまり好きではない。

或る時、それほど親しくもない方の家に行って

牛乳羹というものを出されたことがある。

美味しいですよ、一口どうぞ、と、言われ

覚悟をして口に入れると

甘い、だけではなく、微温温かく、乳臭い。

出された紅茶にもお砂糖が入っていて

口に入れた途端、後悔の念が押し寄せてきた。

だからたとえデパートの試食でも

他所様のものは

なるべく食さないようにしていた。

ただ

レストランのパフェとその上の

ソフトクリームは好きだった

 

なので元町のユニオンで

ソフトクリームを売り出した時は

嬉しくて何度も買って食べた

昭和40年代後半

高度成長によって町並みが少しずつ

確実に変わりつつある頃のこと。

普通のアイスクリームと違って

直ぐに溶けてしまう儚さがなんとも愛おしかった。

今日はそのソフトクリームののる

パフェの日。

なぜ今日をパフェの日というかと言うと

1950(昭和25)年に

巨人の藤本英雄投手が

日本プロ野球史上初のパーフェクトゲームを

達成したことに因んでいるそうだ。

パーフェクトのフランス語パフェ(parfait)

完全試合がパフェ

とは、なんとも心許無い表現に思えるのだが。
=============================

最近、元町商店街がすっかり様変わりして

お惣菜屋さんやドラッグストアが出来ていた

 

個人店の跡取りや

商店街の組合の問題で元町を離れたり

閉店したりすることは

1980年代には表面化していたようだが

現実的にその状況を目の当たりにすると

なんとも言えない寂しさを感じる

 

これは中華街も同様で

それまでの高級志向から庶民的な街に変わり

また、それまでは厳しく禁じられた食べ歩きが

逆に推奨されるようになり

組合の主導権が本土内陸部から海南

そして台湾と変化して

多くの店が横浜市内の他の場所で営業を始めていた

 

私が中学生の頃、友人の家に行くと

いつも決まったお店の

決まった料理を食べさせてくれるのだが

彼女のお母さんがお店に行って注文してくれて

お店の人がお盆に載せて持ってきてくれる

そんな出前で

 

その後、いろいろな友達と食べに行き

 

結婚してのち

夫と娘を連れて行き

その頃は店主の女性から

自作の料理や漬物を頂いて

娘などすっかり身内のように声をかけて頂き

足かけ四十年ほど縁が有ったが

結局その店も中華街から転出してしまった

 

思い起こせば

私の子どもの頃から今に至るまで

生活環境に

中華街と元町は当たり前にあり

 

その中で、実際は何度も

衰退と繁栄を繰り返している

様を観て来た訳で

 

人の生き様も価値観も変わるのだから

商店街の在り方もまた変わって行って

当然な事であり

 

たぶん、今あの当時のソフトクリームを食べても

あの頃のような感動を受けることは無いと思うし

もしかすると美味しいとも思わないかもしれない

 

過去の何かが懐かしいと思えるのは

その過去においてそのものが珍しかったから

というのが一番の理由だと思う

 

過去と言えば

過去の写真を見て

今の時代の人が

その過去の時代を羨むコメントを

寄せているのを見るが

 

元町ユニオンでソフトクリームを

売り出した頃の巷では

お金の為に血を売る人がいて

その商売は

1974年に献血という形になるまで

闇の中では続いていたのを知る人は

どのくらいいるのだろうか

 

そして中学の先輩には

実の親ではない人の家で暮らす人もいて

その親でない人の家は三畳二間という狭さで

 

これは

ごく当たり前の家庭でもあって二間

それも広くて四畳半

一間は子ども達

もう一間はリビングと夫婦の寝室を兼ねて

 

例えば省の付くところに勤めていも

与えられる官舎は汲み取りであり

庭に共同井戸が有り

 

中学の修学旅行に行くために先輩が血を売る

という話を聞いた母親達が

お金を出し合ったこともあった

 

その子の親権を持つ、というか

当時今のような明確な親権など存在せず

友人知人の子、時には路上で暮らしている子を

家に連れ帰って育てていた人もいたと母から聞いた

 

学校に行かせるにはその年齢になったら

役所に行って申告するのだとか

だから時には国籍を有しない子もいて

 

私の夫が経営していた会社には

1980年頃まで

昭和22年生まれと言いながら

親の落ち度なのか、養子だったのか

戸籍の存在しない人がいた

 

また、戦災孤児でありながら両親を亡くしての

引き揚げの途中、自分達を邪魔者扱いした

大人が怖くて当時保護していた教会やお寺を頼らず

妹と二人逃げ歩いて暮らす

日本国籍を復活させていない人も見えたが

 

保険証の提示を求めると

それきりになり

私は当時のことを思い出すたびに

出来なかった自分を悔いている

 

 

その先輩も同様に

元々進駐軍の行きつけの店で

働いていた人の子で

仕事仲間に引き取られて

母子という形で暮らしていたと

その人の同級生だった姉が後に教えてくれた

 

そして私の同級生にも

養父母の下で暮らしたり

また途中で貰われて行く人もいた

 

その人たちはその後、特にグレることもなく

普通に生きて、普通の大人になって行った

 

その中の一人に

子どもの頃の環境について聞くと

子どもの頃の環境で

大人になった自分が可哀想だと思うのは

単にその人の性格だと思う、と

そう言っていた

 

世の中に

生まれてから亡くなるまで

パーフェクトな人生を送っている人など

独りもいないと思うよ

 

他人の生き様に対して

そう見えるのは自分が未熟なんだと思う、と

 

何かあって

ヒトと比較して

自分はついていないと思うとき

その彼の言葉を思い出す

 

 

 

 

 


 

■ 2002/06/27 (Thu)横濱俳句倶楽部ほのぼのとから 

 

英語の教科書に

ヘレンケラーについて載っていたのは

中学三年生のときだったと思う。

サリバン先生のヘレンの体当たりの教育の様子に

アメリカの女性は凄いなあと思った。

子供の頃通っていた教会でクリスマスの日

プレゼント交換のあと

みんなの前で挨拶をさせられた。

また、アメリカの友人の誕生日に呼ばれると

その家の家族の前で

友人は

今日の日の感謝と自分のこれから、を語っていた。

中学二年になると

船舶のおじと撃ち合いをしたおじさんの伝で

米軍の兵士を招いての勉強会ということで

数人の子どもが一つのテーブルに着き

一つの事柄について、話し合いの席を設けて

それぞれの意見を英語で言い合った。

 

その前に

その日までにあったことを一人一人報告する

大人になって、これがSpeech とdebateの練習だった

ということを知った。

少し前に、「…言葉は最大の武器であり、

責任を持たなくてはならない。。」

などという言葉で庇護された方もいらしたが、

確かに、言葉は人間が持てる最大の伝達手段だと思う。

その、言葉、について、英語の

スピーチを演説

ディベートを討論

と訳したのは

福沢諭吉であったそうだ。

もともと演説は演舌と書かれたそうだが

討論を舌戦としなかったのは

如何してだったのだろうか。

今日はその諭吉が

慶應大学の三田校舎で演説と討論会を行った日。

 

討論の内容は、

「士族の家録なるものは

一体プロパーチー(property)であるか

サラリーであるか」

とうことで

結局サラリーということになったとか。

小学六年の時に

アメリカ国籍の友人から

今日はお姉さんが十六歳になったので

社交界クラブでデビューをするからと

遊びを断られた

社交界デビュー

ものの本によると

演台でスピーチをして

初めて会う人と

いかに上手に会話を交わせるかを

披露して、ワルツを踊るのだとか

 

高校生になり、体育の特別講師である

ダンス指導の先生によると

 

何処の世界の人とでも

その相手の国の良さについて話せることが

最低の条件と


ただ、ワルツは、多分、そういうわけで

高校の必須科目として習ったが
日本国内限定の

社交界デビューさえ未だしてはいない

===========================

今思うと

日本の何処に社交界クラブが有ったのか

サッパリ分からないし、一生をかけても

私が社交界デビューが出来ないことは

薄々気が付いている

 

だいたいにして

タキシードを着た人とワルツを踊るという

その場面自体

今のところ出くわしたこともないのだから

 

高校時代に受けた

海外の社交ダンスの大会で優勝したという

その道で有名な先生の厳しいご指導も

役に立たつことなく終わると思う

 

当時

月に一度だけワルツの指導をされる先生は

最後の日に燕尾服を着用されていた

 

そして軽やかなステップで踊ってくださる姿は

映画の中のフレッド・アステアそのものだった

 

その先生が見本の相手として選ぶのは

当然先生より身長の低い子

 

1960年代の

二十歳の男性の平均身長は166cm

1950年代になると155cmと有った

 

1960年代当時の

私の身長は162cm

バスや電車に乗ると目に入るのは

中年過ぎの男性の後頭部ばかりで

 

姉達も妹も全員

私より背が低く

そして色白で、黒髪のストレートで

 

私は色が黒くて

尚且つ癖毛で奥目で常に短髪で

小学一年の入学式の記念写真は

背が高いことを理由に最前列のど真ん中で

 

見知らぬ人からはアイノコと言われたりして

 

妹は

真っ白な生地に

嘗て伯父がおめざにくれた

苺のキャンデーのような

可愛らしい柄の

ひらひらとしたワンピースを着て

 

オレンジの形の飴を貰った私は

白一色の大人びたワンピースで

 

そんな話をすると

娘から

お母さんには

悪態師の要素だけは

幼い頃から有ったのねと

追い打ちをかけられるから

体育のワルツの時間以来くらい落ち込む

 

そして最近、私はスカートというものを

一枚も持っていないことに気が付いた

 

私のこれからの夢は

美しい花柄のスカートに

真っ赤なピンヒールを履いて

街を颯爽と歩くⅯadelleなのだが

 

このⅯadelle が

フィンランド語になると

狂ったという意味になるらしいのは

フランスのMadamには秘密にしておこうと思う