テレビの中の稲田は黄金色に輝き
次姉が中学生の頃
ノウハンキという言葉を教えてくれた
春とか、夏とか、冬休みの他に、ノウハンキという休みがある
私が育った環境には、黄金色に輝く田んぼはなく、
その現実を知ったのは
二人目の子どもが生まれ、多忙な夫を置いて、三人で夫の実家に行った時
上野から新幹線に乗ると、ほどなく車窓の向こうに広がる田園風景
八月の稲田はまだ青く、風に浮かれた稲たちが、大きく、小さくうねり
その風景は北に行くほどにパノラマになっていく
近くの田に電車の乗客に向けた看板が立ち、夫が教えてくれた、酒は大七という看板が目に入ると、間もなく最寄り駅
その時さえ、私には、この稲田の苗を一本一本、人の手で植えるということが想像出来なかった
天皇陛下に拝するときのお辞儀ような、90度に身体を折り曲げ
泥濘の中を、一本一本植え込んで行く
苗を機械で植えるようになったのは、
早くは1950年代半ばからだそうだが
全国的に用いられたのは1970年代になってからだとか
それまでは
戦前は
小作人という制度が
あったそうだが
戦後は家族や
近隣の人が協力して
作業をする
その作業の担い手が
小学生から高校生までの子どもたちによる
ノウハンキ休暇
この形は場所によって異なるが
最終的には
1970年になるまで
続いていたという記録があるそうだ
1970年代になると、集団就職の列車も廃止され、
農家の次男や三男は
実家から働きに出て、農繁期休暇を取得する
つまり
戦後農家に生まれた人達は
大人になっても
ノウハンキ休暇を
取っていたということなのだろう
休暇というには途方もない重労働
バブルという好景気になり、人は米よりパンや麺類を食べるようになり
北に向かう風景にも麦畑が目立つようになり
離農する人が増え、
限界集落という言葉が生まれ
1990年代の米不足で、再び米を作る人が増え
お米が増産されると、今度はご飯の廃棄量が増えていく
青く広がる稲田
そして、田の中に立つ
酒は大七という看板
全ては思い出の中にある