夫の実家に行くとき、
夫から頼まれて
鶏の手羽先で作った揚げ物
チューリップを持っていった
横浜元町に、嘗て鈴音という鶏肉屋さんがあり、次姉が事務所に勤めていて、その関連で高校時代にアルバイトをして覚えたもの
当時通っていた高校はアルバイトは厳禁だったのだが
当時のその商店街の顧客は大半が外国の人であり、
お店では親戚の子と紹介されていたので
このお店の他にもいくつかのお店でアルバイトをさせて貰って
デパートへの出展のお手伝いに行ったりもした
別に自分だけが特別な訳ではなく、同級生の中には何人も親を通しての知り合いのお店でアルバイトをする生徒がいた
中には両親の離婚で、マンションで独り暮らしをする同級生もいて
二十歳になる前に父親を亡くした同級生は父が遺した遊興施設を経営し、街で出会うと、これから手形の割引に行くという話をしたり
そんな時代に夫は
麦踏みをして
農繁期には学校を休んで人力になり
15で義務教育を終えると
進学するにしても都会に出て住み込みで働きながら通うことになる
1970年代半ばに夫の実家に行くと
空揚げは喜んで貰えた
義妹がもっと食べたいというので、手羽先が欲しいというと、舅が、何羽潰せば良いかと聞いた
養鶏、ブロイラーというものが日本で始められたのは1955年頃であり、全国で販売されるようになったのは1980年に入ってからだそうで
夫の実家で食べる鳥は義兄達が山で撃ち落としてくる山鳥、ということをその時自覚した
その頃、私の実家には越中富山というところから薬売りが来ていて
その薬の中に、小さな缶入りの、熊胆(くまのい)というものがあった
マタギによって捕らえた熊の肝臓を乾燥させたものだと教えられた
2000年代までのテレビで、地方を旅する番組には
必ずと言って良いほど
山の生き物を捕らえて食べる人達が出ていた
熊を捕らえた人は自慢げにそのときの様子を語る
都会と山村との暮らしには
互いに想像出来ないほどの大きな隔たりがあった
その、山村の、自然の中で暮らしていた人々は年を取り
物流などにより、都会と地方の違いも無いに等しい
山の獲物にしても
まれにジビエを食べても、熊を獲って食べることはない
淘汰されなければ増えていくのは当然であり
縄張りを持つ熊たちは、熊同士の戦いに敗れればその地を離れて行かねばならず
人の生き方は変わっても
山の生き物は変わらない
奥深い山にさえ行かなければ熊に会うことも無いだろう
それはたぶん人間の思い込みなのだと思う
熊や猪や 野生動物にはそこが山であるか、否かの境はなく
熊が出没のニュースを聞くと
人の生き方そのものが変化した今
都会と山村との線引きだけで
都会だから安心という時代では無いように思えて
他人事(ひとごと)で済ませる問題でも無いようにも思えてくる