津軽弁の日 | ミナミのブログ

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のんびり、、まったり

2003/10/23 (Thu)横濱俳句倶楽部ほのぼのとから 

 

 今日は、方言詩人という、高木恭造の命日。


そして津軽弁の日 


 津軽弁の日やるべし会が、昭和63年に制定したのだそうだ。


 この会の会長は、二人代表制で、その一人は、伊奈かっぺい、という、もと青森放送の営業マン。 


 この人との出会いは、夫の実家に有った一枚の礼状。 


 そして、帰りに寄ったガソリンスタンドで買った一本のテープ。 


 それからは我が家では、特に、当時中学一年であった娘はすっかり、このかっぺいさんのお話のテンポに魅せられて、ファンレターまで送っていた。 


 なんと、ご丁寧なことに、かっぺいさんは

その中学生の娘に、自筆のお返事を下さった。 


 それも一度どころではなく、娘が折りにつれて差し上げる手紙には、全てお返事を頂いていた。 


 我が家にはかっぺいさんのテープは、だから、余さずある。 


 娘は今でも車に乗る時はそのテープを全てもって行き、走っている間中、伊奈かっぺい独演会スペシャルを聴かされる。


 だから我が家では青森にはご縁はないのだが、私も青森の、特に津軽弁の、独特な言葉のリズムには、何処か懐かしみさえ湧いてくる。 



 

「秋ネなれば」

~~

お岩木サマァ

ニグラド笑てら

ネユギァ降ネうぢね

さあもうフとケバリ

りでェー 

高木恭造の雪女(ユギオナゴ)から



 この詩を読んでいると、
私も、さあもうフとケバリりでェー

という気にさせられる。 

 

言葉とは不思議なものだ。 

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言葉とは不思議なもの


大学の、試験に受かりながら、中学時代仲が良かった同窓生の存在が理由で断られて

高校の教師から小さな業界専門の出版社を紹介されて


二年ほどして成人という年を向かえた

私の未来図は何も無いように思えた


小学六年の三分の二を病院で過ごし、高校生になっても

黒板に描かれた平行四辺形の図の描きかたが分からず

ノートにラフ図を描いて、数学の教師に豆腐屋の娘かと揶揄され、それさえ意味が解せず


デパートの雑踏の中を歩いていると、自分は誰からも必要とされていない、そんな気持ちになって、屋上からぼんやり遠くを眺めていると、そういえば私は一度死亡宣告を受けて医師からも見放されたんだ、ということを思い出した


その時習得した幽体離脱の技で町を見下ろしていた記憶が

屋上から見下ろした風景に重なる


自分は誰かに必要とされていないのではなく、自分自身が自分を必要としていなかったんだ


そう思うと、何故か何でも出来るような気がしてきた


当時得意だった英語を必要とする会社に転職して、その頃夫から夢を語られた


働く場所の無い子どものために一緒に頑張って欲しい


私は、母の我が儘で歪な家庭環境で育ったために結婚願望が皆無で、

夫が定型文で結婚を望んだら

夫以前の人達と同じように断っていたと思う

計画

そういえば私から大学に通うチャンスを奪った同窓生も、国籍とかそんなもので差別を受ける子どもをなくし、全ての子どもが平等に幸せになる世界を目指していた


夫のいう、働く場所、はその後、世界を震撼とさせた事件に賛同した若者が語っていた


彼らは外国の援助で大学を出ても、自国に戻れば働く場所がない

なまじ大学で多くを学び、世界の経済状況を学んだために、より上級の生活や仕事を望んでしまう


なんとなく、今の学歴社会の日本に似ているように思えた


自分自身の人生に行き詰まったら、自分ではない誰かのための夢に賭けて見る人生も良い


今の私はそう断言出来る