鰯雲 | ミナミのブログ

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2008-10-16Amebaブログから


鰯雲といっても、牧野信一の、百足凧 という書き出しの小説ではなく、空に浮かぶ雲のことです。


澄み切った秋の空に、幾何学模様を施すこの雲は、いつまでみていても厭きない、そんな気がします。

本名は巻積雲(十種雲形の一。白い小さな雲塊が集まっているもの。

氷晶の集まりで、ふつう5~13キロの高さに現れる、とのこと)といって、

鱗雲のほかに、鯖雲と鰯雲いう別名があります。


鱗雲はその漢字の通り、鱗に似た雲で、鯖雲は、鯖の背紋に似ていて、鰯雲というのは、

この雲が出ると、鰯が大漁につれることから、と聞いたことがあります。


私は、鯖雲は形が同じような雲が並んでいて、鱗雲はちょっと詰まった感じ、と、勝手に捉えています。

この形が少しぶれてくると、薄雲になり、高積雲の羊雲になり、くっついてくると、

高層雲(おぼろぐも)になり、やがて雨を降らす雲になるんだそうです。


十種雲形とは、高いところから順番に、巻雲(筋雲)、巻積雲、巻層雲(薄雲)、高積雲、高層雲(朧雲)、乱層雲(雨雲、または雪雲)、層積雲(いわゆる曇り空)、層雲(霧雲)、積雲(綿雲)、積乱雲(入道雲 雷雲)

と分類されているそうです。


飛行機で雲の上を通るとき、まるで樹氷のように突き出ているのは、

積乱雲が下に有るからって教えられたことが有りますけど、本当のところは判りません。


そういえば、随分昔に、厚木の農家の生活を何代かに渡って坦々と描いた、『鰯雲』という映画を、

テレビで観たことがありました。


妙にリアル感を持って見入ったのは、成瀬巳喜男のなせる業であったのか、厚木という地名が近くに存在

したからであったのか、今となってはトンと判りませなんだ。



羊雲も、鰯雲も、、鱗雲も、秋の季語になります。


百足凧――これは私達の幼時には毎年見物させられた珍らしくもなかつた凧である。当時は、大なり小なり大概の家にはこの百足の姿に擬した凧が大切に保存されてゐた。私の生家にも前代から持ち伝へられたといふ三間ばかりの長さのある百足凧があつた。この大きさでは自慢にはならなかつた。小の部に属するものだつた。それだと云つても子供の慰み物ではない。子供などは手を触れることさへも許されなかつたのだ。端午の節句には三人の人手をかりて厳かな凧上げ式を挙行したものである。――因縁も伝説も迷信も、そして何として風習であつたのかといふことも私は、凧に就いては聞き洩したので今でも何らの知識はない。花々しい凧上げの日の記憶が、たゞ漠然と残つてゐるばかりである。それにしてもあれ程凄まじかつた伝来の流行が、今はもう全くの昔の夢になつたのかと思ふと若い私は可怪をかしな気がする。 「ほう! そんな凧が流行


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凧といえば避雷針を発明したベンジャミン・フランクリンを思い出す。


これは中学三年の授業中に化学の先生が余談として話してくれたもの

たぶん、何故化学を学ぶのかについての話だったのだと思う


当時の大学生達は安保反対から体制派に対するアンチテーゼの一貫として、何故、という言葉で既製の在り方を否定し、それに感化された中学生も、とりあえず受ける科目に対してその存在価値を教師に問うていた


大概の教師は一人前の大人になるためとか、必要だからと答えていて

生徒達の中に不完全燃焼という形の反発心が生まれ、三無主義という言葉になり、校内暴力になって行くのだけど

それはいちご白書の元になった、大学教授の、苺が甘いか否かほどの問題に過ぎないという、それほどのものだったように今になると思える


社会科の教師は、先生に対して疑問や自身の要望があるなら、実際に教師になって生徒に教えてみれば良いと、そんな風に話し、同学年の何人もが実際に教員になっていたが、その結末を聞く機会はない


ベンジャミン・フランクリンはその後紙を作る工場を営み、ピューリタンという清教徒のの精神から奴隷解放を基盤にしたアメリカの独立宣言の草案をする一人となり、後にフランスに駐在し、パリ条約を取り付け


凧の一つでも、なにかに疑問を持ち、究明することが大切


当時の教師から学んだことは半世紀以上過ぎても頭に残っているから不思議だと思う


そして鰯雲

雲や風の流れ、空気の匂いで天候を予測することを観天望気というが

これは商船学校の教員で有った父と、近所の釣り船屋さんのおばさんから教えて貰ったもの


雲の形や風の匂いで天候が分かる


雲の形は見えるけれど風は見えないから説明が難しい


そう思っていると、庭仕事の好きな娘が、風が冷たくなったから雨が降ると言って家に入ってきた


自分自身が経験を繰り返して身に付けていき、世の中に役立てる


中学時代の化学の教師も社会の教師も父も釣り船屋さんのおばさんも、

世の中に名を遺すような偉業は果たしてはいないけれど、その経験を私達の世代に繋げてくれ、私は娘に伝えることが出来ている


今の時代の学校は一つのLINEをクリアしていないと適応障害とされてしまうそうで


いわゆるギフテッドという状況の姪の娘は最初クラスメートになじめないことで、知的に問題があるとされて、特別な学校に転校を勧められたそうだが、その後のテストの点数で、姪のところに、勉強のおくれている生徒の勉強をみるよう家庭で指導してくれと連絡があったと言って嘆いていた


一方からは不公平に見えるけど、誰かに教えることで自分の知識も増えるというと、納得していたが、その後どうなたかは聞いていない


子どもの頃、空き地で年の違うお姉さん達と学校ごっこをしたことを思い出し、姪にその話をしようと思ったが、今時こどもが自由に遊べそうな空き地など無さそうなので止めた