元町  | ミナミのブログ

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のんびり、、まったり

 2003/09/28 (Sun)Yahooブログから  


子どもの頃、元町のユニオンに買い物に行き、通路に立ち止まっていると、move on!なんてお客さんに怒られた。

当時の大人は子どもに有無を言わせる暇など与えなかった。

当然、お店を走り回る子どもなどいなかったが、もしうっかり走ろうものなら、何処からともなく、鉄拳が飛んできた。

品物を物色している私に、キュズミー、という声がかかったとき、これで私も大人の仲間入りが出来たのだ、なんて、なんとなく自負していた。

お店で買い物をしている人たちはカートの中にめぼしい物を入れると、それをレジでカウントし、お金を払い、そのまま、荷物は持たずに帰ってしまう。

だから、お店の中に長く滞在することはしない。

今は良く解らないが、私たちが中学に通う頃までは、ユニオンは現金主義で、カードは取り扱っていなかったと思う。

現金で全て支払いを終えて、あとは、お店のヒトが個別に配達に来るのだ。

先日、お店に行くと、配達の荷物はあったが、お店の通路には何人もの買い物客のグループが立ち止まって談笑し、時には中腰になって、時間をかけて、品物を選んでいた。

根岸線が開通し、市電が消え、道路から線路が消えたときも、壊れかけた薬師堂が消え、大きなビルになったときも、製氷場が無くなって、工事現場になっていたときも、

時代が変わったんだなあと思ったが、

ユニオンのいでたちが変わって、初めて、もう、自分の馴染んだ元町は無くなったのだな、ということを実感した。

きっと、その場所で生活の糧を得て、また、成長する機会を得ていたからなのだろう。

元町は、長い歴史の中で、天災や戦災に遭い、それでも、何度も再生し、復興してきたという歴史がある。

今はまた、新しい時代に入っているそうだ。

その改革を図るスタッフの中に、中学の先輩の名前があった。

幼い頃は母の幼馴染のおばさんがいっぱいいて、ヨーグルトやアイスクリームが貰える美味しい町で、父と映画を見に行く通り道で、通学路であった町。

どんな風に新しくなっていくのか

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過日、元町の変貌についてブログに書いたけれど、今思えばこの街は私の人生の間でさえ、幾度にも変換期を通り過ごしていたのを思い出した。

 

元町は元々職人の街であり、象牙や銀製品、鞄や靴、そして経師や、畳、(銅製の入れ物を作る)銅壺(どうこ)と呼ばれる職業の人たちが間口一間の硝子の引戸の中で常に作業をしていた

 

その裏通りの入り口の奥にはイギリス人にパンの製法を習った店があり、出口の方には虎やという看板を掲げた和菓子屋があった

 

店の中に天皇陛下に献上と有ったので、それなりの職人さんであり、一説には赤坂と縁の有る店ともいわれていたが、真相は定かではない

 

1980年代、中華街と元町はみなとみらい線が運んでくる顧客を期待して、夫もまた仕事が得られることを期待した

 

みなとみらい線が本牧の先まで延びなかった理由がいろいろと囁かれたが、実際は元町・中華街駅から直線で向かう、その初っぱなの湧水を止めることが出来なかったのだ

 

中請けの建設会社から、三度目の試し堀でも不可能だったという連絡を受け取った

 

当時の政府は、モノから人という政治方針で、予定していた多くの建設工事が中止になっていて

建設業者も、相当な痛手だったようで、それぞれに横浜市から撤退していった

 

この時

市民が要望した市電を復活させていれば

元町から本牧の外れまで

人の流れは変わっていたように思うが

それもまたタラレバの話であり

一介の元工事屋のおかみが語ったところで

だが

 

その政権発足の時に

野党になった元与党の質問に対して

当時の総理が、政権を取った経験がない、不慣れな政府なのだから

それを考慮してという発言をして

心底驚いたのも今は懐かしく

 

ここ数日の与党の党首候補の発言を

見ていると

あの時の思いが

ディジャブのように襲ってくる

 

少なくとも

三年ほど前に三千日以上党首を務めた

人材のいる政党なのだから

 

若いから女性だから未経験だから

という理由を

言い訳にしては欲しくない

 

そして願わくば、衣食足りて礼節を知る

ノーマルな人格の人であって欲しいと思う