2008年7月アメバのブログから
雨の日、土曜日の放課後
教室の窓から校庭を見下ろすと、
傘も挿さず、彼は立っている。
あれは、遠い昔、中学生の頃。
彼はただ、雨の中に立っている。
雨はいつまでも止むことなく。
鞄の中に読んでいた本を押し込んで、
スロープを降りて 校庭に出ると、
そこに彼はいなかった。
彼は、その日を最後に、親戚の家の養子になるために
転校していった。
終礼が終わり、教室を出て行く彼に、一言だけ、元気でね、って声をかけて、
二年間の同級生との別れは終わった。
彼はあんなにも長い間
校庭の真ん中で雨に打たれながら、何を考えていたんだろう。
雨に濡れながら佇む人がいる
傘の花が咲く土曜の昼下がり 三善英史=雨=
この唄を初めて聴いたとき、
めいっぱい強がって 笑いながら じゃあなって教室を出て行った
彼を思い出した。
それ以来 雨が降ると 何故かこの歌を聞きたくなる
彼の顔さえすっかり忘れているのに
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彼を送り出す為に
級友の一人はバラが咲いたを歌おうと
そしてもう一人、ギターを弾いて
送り出される彼は
ニコニコとそれを聞いていた
首謀の子は
君の胸の中には
僕たちが咲かせた真っ赤な薔薇がいつもある
なんていう、中学生らしいセリフを吐いて
彼はそんな言葉にもニコニコと笑っていた
翌日、情報通の同級生が小声で
彼は米米が必要なお父さんの為に養子に行った
そう話していた
彼がニコニコ笑っていたのは
自分自身では抗えない人生を
ただ受け入れていたのだと思う
このブログを改めて載せようと下書きをしていると
娘が、それは○○○○では、と聞いてきた
そこで私は、自分の育った環境に当たり前のように
それが有った事実を再認識した
○○○○はAIに拒絶される内容
両親のもとで成長して世の中に出ていく
そんな当たり前のことが幸せと思えた時代が有った
今は法律で
実際、今、子どもの人権は守らているのだろうか
護るべき
家族でありながら
学校の教師でありながら
大人であるべき人達が
護るどころか、自己本位な行動で
新聞の紙面を飾る
子どもを不幸にしているニュースを見るたびに
雨の中で佇んでいた彼を思い出すけれど
たぶん、家族を守るという信念を胸にしていた
彼の方がずっと幸せだったと思える
それはとても理不尽な話なのだけど
そしてまた、経済は高度成長をして
あの頃のような貧しさの中で暮らす人はいないのに
人はあの頃より今の方が不幸だという
幸せの定義は何なのだろうか