2004/06/24 (Thu)Yahooブログから
今日は美空ひばりが亡くなった日で
りんご追分から、林檎忌
そして、ひばりの名から、麦の日、というそうだ。
雲雀と麦 という詩は
ぴいぴいぴいと囀る雲雀、
囀りやんで何處らへ落ちた、
青い青い麥の中か、
姿かくれて見えない雲雀。
というもの
これは
尋常小学校といわれた頃の文部省唱歌なのだそうだ。
そしてもう一つ、もう一つ
お家忘れて
というものがある。
お家忘れた 子ひばりは
広い畑の 麦の中
母さんたずねて ないたけど
風に穂麦が 鳴るばかり
お家忘れた まよいごの
ひばりはひとり 麦の中
お山の狐は なかぬけど
暮れてさみしい 月あかり
=鹿島鳴秋作詞=
小さな女の子は
家を忘れたわけではなかったようだが
帰りたくもなかったようだ。
纏わりつく幼い子どもを
邪魔だから、と、高い場所から突き落としてしまう。
それまでの女の子の人生は
どんな風だったのだろうか。
そしてまた、未成年の女の子が
真夜中の町で殺害され、発見されたというニュースを読んだ。
その女の子は、外国の男性から
プリペイドカード式の携帯電話を与えられていたそうだ。
この子ども達にとって
家庭とは、どんなものなのだろうか。
今、新しい国を作るために
テロリストと戦っている国の子ども達に
優しいまなざしをさしかける方がたくさんいらっしゃるようだ。
それは素晴しいことだと思う。
しかし、私は、ひとつの童話を思い出している。
それは、インドの物語だ。
貧しい少年がいつも遊んでいる公園に行くと
着飾った大人と子ども達が、集まって
たくさんのご馳走が並んでいる。
少年が近寄ると、その大人の一人が
仲間の子どもと思い込んで
彼に、他の子供たちと同様に余興をするように促す。
少年は、とても歌が上手で
だから、愉しげに歌い上げる。
すると、大人たちは感激して
少年にメダルを与え、褒め称える。
そして、その後、その少年の親に
舞台に上がるように呼びかける。
その親などいるはずがなく
少年が、実は、その場所に紛れ込んだ
乞食の子と解ってしまう。
すると、大人たちは次々に少年を罵倒し
犬でも追い払うかのように
少年をその場所から追い出し
そのとき
少年の首にかかっていたメダルを引きちぎる。
その後、会場は何も無かったかのように
賑わっていき
最後に、その中の代表が
これで外国の貧しい子どもたちへの寄付が
たくさん集まりました、
と、挨拶をする。
その小説は
自国の子どもを救うことの方がずっと大切
と結んでいる。
基本的なルールを守らない大人達を
見ている子ども達に
ルールの大切さを教えるのは、大変なことだ。
家族だけが頑張ったからといって
子ども達が全てを納得できるわけでもないと思う。
日本へ見えたマザーテレサは、日本の様子を見て、
豊かそうに見えるこの日本で
心の飢えはないでしょうか。
だれからも必要とされず
だれからも愛されていないという心の貧しさ。
物質的な貧しさに比べ
心の貧しさは深刻です。
心の貧しさこそ、一切れのパンの飢えよりも、
もっともっと貧しいことだと思います。
日本のみなさん
豊かさの中で貧しさを忘れないでください。
という言葉を残している。
守るべきものを見失わないように
時には厳しさも大切なのだと思う。
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少し前から
家庭内ホームレスという言葉を
耳にするようになった
両親共に高学歴で働いている家庭の
高校の、特に女子生徒が夜の街を徘徊する。
親との意見や価値観の対立で
家に居場所の無い子が路上で暮らすための
自己防衛として始めたのが
ガングロという化粧だという
そんなドキュメンタリーをテレビて報じていたのは
1980年代後半になってからだろうか
その頃、海外では
夫婦で要職に就く人が多くなり
二人で人生を謳歌したい
そして女性の体形が崩れるのを阻止したい
そんな理由からDNKS w income no kids
という生き方を選択する人が多くなったが
日本でも若い夫婦の間でその形を選択し始めていた
一方で月五千円で子どもを持つことが出来る
と言う表現で
貧困国の子どもに対して契約を結んで
その子を直接支援するという
そんな支援の仕方が出来て行った
家庭内ホームレスの子は
家庭に帰ることは出来ても
自分自身の部屋が有っても
毎日の学費や生活のためのものは整っていても
食事と会話が無いのだそうだ
食事が無かったら自分で作れば良い
それまでなにも教わらずに、学校や塾や
習い事に行き、高校に入ったら突然
何の前触れもなく、説明もなく
会話もなく、家の中で独りの生活が始まる
かなり前に大人になった自分でも
もしそんなことを家族にされたら
どうだろうか
凄く心が疲弊すると思う
しかしその対象は子どもだけではなく
母親であったり、父親であったりもするとか
家族の中の、気に入らない特定の誰かを疎外する
その発端は、感謝という気持ちを育むことなく
成長し得た時代の豊かさが有るのだろうなと思う
今の時代は努力しなくても多くのものが
容易く手に入る
安価だから粗末にしても良い
今の時代は勉強さえすれば高校に入れる
親は我が子を良い大学に入れて
よいところの就職させて、と
その為の軍資金を稼ぐために
幼い頃から保育園に入れて働きに出る
そしてその大学のランクが決まる高校入試で
芳しくない成績を修め
親の意図しない高校に入る
その途端、親は子どもを無視し始める
それが今の時代の家庭内ホームレスなのだとか
安価な人生しか選択出来ない子どもだから
面倒をみる気も起きない
そんな気持ちなのだろうか
そのホームレスとされる子の親に
人に物を教える職業の人もいると聞いて
心の中の重しが一層重くなった気がした
1980年代のホームレスは
番組の人に諭されて、ある時家に帰ったのだが
当然、家を出たことに対して怒りながらも
テーブルにはたくさんのおかずが用意されて
その子は家に帰る選択をしていた
もしかすると再び家を出るかもしれないが
それでも帰る家がある
しかし今の時代の子は
家庭こそが一番落ち着けない場所という
本当の意味で食べるものにも事欠くような
貧しい時代ではない今こそ
家庭の在り方を深刻に考える
そんな時期なのだと思う
生活が貧しいことより
心が貧しいことの方が
事は深刻なのだと
ほんの一年前に
有り余るほどのお米を
炊いて調理した後に棄てて、それを杞憂して
お米が売れないこと、無駄にされることを
懸念していた筈が
お米の値段が上がったという理由に不満を言い
国はそれに応えて
飢饉や災害に備えたはずのお米を提供する
お米の値段が上がってから後、昨年度の
いろいろなお店からのご飯の廃棄量は
50万トン以上削減されたという
問題の本質はこんなところにもあるのかもしれない
常にいる人だから粗末に扱う
何も言わなくても帰ってくるから
会話もしない
路上で暮らす子を恥として
いろいろな対策をして
結局子どもを、家庭内の路上の送り出す
親が守るべきものは
我が子一択だと思うのだが
雲雀は
草むらで子育てをして
危険が迫ると
遠くまで走り、空高く舞って標的になり
我が子を守るとか