■ 2004/06/23 (Wed) 横濱俳句倶楽部ほのぼのとから
今日は、明治41年(1908)に
肺を病んだ國木田独歩が
茅ヶ崎の南湖病院で亡くなった日で、独歩忌となる。
独歩は本名を哲夫といい
明治4年に、千葉県の銚子で生まれているそうだ。
彼の代表作は、武蔵野、であり
その武蔵野の、今の頃の景色を、小説の中に、
日が暮れるとすぐ寝てしまう家(うち)があるかと思うと
夜(よ)の二時ごろまで店の障子に
火影(ほかげ)を映している家がある。
理髪所(とこや)の裏が百姓家(や)で
牛のうなる声が往来まで聞こえる
酒屋の隣家(となり)が
納豆売(なっとううり)の老爺の住家で、
毎朝早く納豆(なっとう)納豆と
嗄声(しわがれごえ)で呼んで
都のほうへ向かって出かける。
夏の短夜が間もなく明けると
もう荷車が通りはじめる。
ごろごろがたがた絶え間がない。
九時十時となると
蝉(せみ)が往来から見える高い梢で鳴きだす
だんだん暑くなる。
砂埃(すなぼこり)が馬の蹄(ひづめ)
車の轍(わだち)に煽(あお)られて
虚空(こくう)に舞い上がる。
蝿(はえ)の群が往来を横ぎって家から家
馬から馬へ飛んであるく。
それでも十二時のどんがかすかに聞こえて
どことなく都の空のかなたで汽笛の響がする。
と、記している。
武蔵野とは、江戸時代の慶安(1650年)
明暦(1657年)の大火により焼け出された人々が移住し
新田開発した土地なのだそうだ。
納豆売りの声。
子どもの頃、自転車の荷台に箱を載せて
その中に
赤い鳥の絵が描かれた白い経木を三角に折った中に
詰められた納豆と
長葱を刻んだものと、青海苔と
黄色い和芥子をそれぞれの小箱に入れて
納豆売りのおじさんが、毎朝やって来た。
それぞれの家から丼を持って
おじさんのところに行き、納豆と、長葱と、青海苔
そして、丼の縁に和芥子をトッピングして貰う。
引き売りのおじさんは他にも
天麩羅や、薩摩揚、そして
お豆腐などを、それぞれに売りに来た。
子どもにとって何より楽しみなのは
今であれば、積載量どころか
危険積載で、即逮捕でもされそうな
物売のトラックのおじさんが来ることだった。
お茶碗やお箸から、蠅叩き、ハタキ、箒、ちりとり
洗濯バサミ、そして、ままごと用の如雨露
ブリキの金魚、スリッパ、バケツ、ありとあらゆる物が
色彩も豊かに、これでもかというほど積まれて
その荷物を、右左に、ゆらゆらと揺らしながら
トラックはやって来るのだ。
このトラックは、それでも
月に一度、若しくは、年に数度
そんな割合出来ていたので、もしかすると
日本の、いろんなところを走っていたのかもしれない。
もしかすると、あの頃のトラックも
あの頃の町も、あの頃の自分も
母や姉達や、近所のおばさんたちも
時空の世界に存在し続けているのかもしれない
そんな空想をするのは
『武蔵野』を読み返したためかもしれない。
砂埃が轍に煽られて虚空に舞い上がる。
今、街を車で走ると
昨日まで雑木林や、竹林であった所が造成され
そして、マンションの予定地に変わって行く
という場面を多く見かける。
崩された崖の先に
ポッカリと空が見え、白い雲が流れていく。
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移り行く景色というと
今は面影もない、昭和の中頃の、中山駅を思い出す
バスで桜木町に行き
桜木町駅で横濱線に乗り
暫く走ると
車窓に映る景色は杉木立と田園と
長い間電車に揺られて
着いた先はj木造の駅舎で
外に出ると
電柱に傘を付けた裸電球の街灯が有って
中央のバス停のを囲んで数軒のお店と
旅館のようなものが有り
そこからまたバスに乗って
なだらかな丘陵にあるのは畑と田んぼばかりで
その田んぼの脇の茂みには山百合の花が咲いていて
真っ白なその花を観ていると、歩を促されて
蟋蟀の住処とかそんなものを探索しながら
帰途に就くと、一人足りない
先生が周りを見回していると
ナップサックに山百合を挿した子が駆けてきて
その花を私に突き出してくれて
先生が呆れながら笑っていた
今であればいろいろと問題になりそうな話だが
当時は校外学習になると
真っ白なトレパンを履いていたので
中山駅というと、鄙びた駅前の風景と
そのトレパンの白さと、山百合の白さを
思いだす
そして、後に、横濱という冊子で
その頃には、中山駅の周辺の川には
1979年に絶滅が確認された
日本獺が生存していたという記事を読み
偶に、時空を超えて
あの場所にも行ってみたい、と、そんな気になる
武蔵野とは埼玉の川越から
東京の、府中辺りまでのことを言ったそうだ