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のんびり、、まったり

2003/09/12 (Fri) 横濱俳句俱楽部ほのぼのとから

 

 

今日は、1872年に、新橋と横浜間の鉄道が開通した日なのだそうだ。

 

横浜といっても、今の横浜駅ではなく、今の桜木町駅の前身

 

京浜東北線の、関内から磯子の根岸までの

いわゆる根岸線が開通したのは、昭和39年、1964年のことだ。

 

それまでは、電車と言えば、省線という横浜線のことだった。

 

横浜駅まで行くと、何処か遠距離に行く、そう、遠い旅に出るという感覚があった。

 

今の新横浜に行っても、あれほど旅愁を感じることは無いと思う。

 

もしかすると昼間でも薄暗く、人に溢れた駅の造りだったのかも知れない。

 

東海道線に乗るには橙のネットに入った冷凍蜜柑というのが必須アイテムだった。

 

そして横浜と言えばシウマイ弁当。

 

この中に入っている醤油瓶のひょうちゃんは

帰ってからも、大切なオママゴト道具になるのだ。

 

水筒と、お弁当と、冷凍蜜柑と、全てを窓際に積み重ね

そして安心すると、そのあと、何処へ行ったのか、さっぱりと、思い出せない。

 

もう少し大きくなって、横浜と新橋を毎日往復する頃になると

冷凍蜜柑や、シウマイ弁当には興味が無くなった。

 

その代わりに、駅の売店で新聞を買うのが、朝の日課になった。

 

新聞と、牛乳を一本、それが、朝の日課で、それが朝食だった。

 

そして、新橋から銀座七丁目の出版社に行くと

そのまま、広告代理店へ、情報収集に出かけた。

 

我が家からだと、元町を抜けて石川町へ行く方が早いのだが

私は、あくまでも、横浜駅までバスで行き、そして、新橋へ向かった。

 

帰りはまた、桜木町で降りて、バスで戻った。

 

何故そんな風に拘ったのか。

 

心の片隅に、旅に出るそんな印象が横浜駅には有ったのだと思う。

 

そして、その上、元町から石川町駅は当時の私にとって、既に過去のものだった。

 

毎朝通った道も

母の時代、姉の時代からの同級生や下級生や先輩がいるお店も

PTAのおばさんやおじさんのいるお店も

後輩が溢れ出す石川町の駅も

うっかりすると未だにその呼び声にドキリとさせられる担任たちの声も

あの当時は聞きたくは無かった。

 

しかし、今になるとその光景の全てが無性に懐かしくなることがある。

 

新橋から横浜への、車窓の景色のように遠ざかって行く懐かしい人々の顔。

 

そして、それは、また、日常の煩雑のなかに埋もれていってしまう。

 

ふるさとの なまり懐かし 停車場の 人ごみの中に そを聴きに行く 

 

とは、石川啄木の唄だが、私もまた、時々たまらなく元町に行きたくなる。

 

そして先輩や、子どもの頃から馴染みのおばさんたちに会って、ひとときを慰めてくる。

 

今住む家から電車で40分にも満たないのだが、毎回、石川町の駅に降り立つと

無性に懐かしくなるから不思議だ。

 

少し前に盆踊りとは、亡くなった人の面影を求めて行われたと

書いたことがあったが、駅の雑踏もまた、そんな風に思える。

 

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この内容を元にある音楽出版社で応募していた作詞の項目に入選したことが有った

もう40年近く経っているので、その詩がどんなふうに使われたか知る由も無いが

 

東日本大震災当時、再び子どもの頃住んでいた町に戻っていて

町内会長の言う、この街は海抜が無いに等しく、東日本大震災並みの津波が襲った場合

自力で何とかして欲しい

助かった時は避難する場所も非常食も、水も確保出来ている

という言葉に触発されて、夫の病状も手伝い、高台の街に転居したので

元町に行くには地下鉄からバスに乗り換えなければならず

少しずつ足が遠のいている

 

それでも年に数回、行きつけの店への用事で行くのだが

 

ある時、いつものようにその店に行くと

自宅にしているはずの二階から

食事を終えたらしい高田純次さんが下りてきて

何も言わずに店を出て行ったことが有った

 

余りにも自然な動きに、お店の人に、なんで?と聞くことも出来なかったが

高田純次さんが全てにおいてフリースタイルだということは良くわかった

 

フリースタイルと言えば、姪の結婚式で福島に行く新幹線に

興業でなのか、私達と同じ車両に演歌歌手の御一行が乗られていたこともあった

 

顔ぶれを見ると、当時一線で活躍している方ばかり

演歌歌手御一行に私達親子が紛れ込んだ、というほうが正しいかもしれない

 

ところがそこで女性が窃盗をはたらき、鉄道警察の方が見えて

たまたま家族と席が離れていた息子の切符は翌日のもので

 

何か疑惑をかけられたような気分で乗務員に説明すると

結婚式の日を間違える訳がないから、予約した代理店のミスでしょうと

連絡を取って貰い、確認をして貰い、切符を差し替えて貰い

気分的にも無罪放免になり

 

食堂車に行き、スタッフの人にその話をすると

スタッフの人が山川豊さんも乗っているそうですねというので

サインを貰おうかな、というと

 

私達より前からおられたお隣の男性が

では僕は席に戻らなければと帰って行かれて

 

その自然な動きに、スタッフと顔を見合わせ、お互いに、え?っと声が出ていた

 

その食堂車も今は無くなり、新幹線に乗ったらイヤホンで音楽を聴き

ひと眠りするのが習慣になった今は同じ車両にどんな人が乗っているかなど

興味も無くなってしまった

 

切符もまたネットで予約するので人を介することも無い

 

思えば省線で横浜まで行くというと、同じ市内なのに

駅の改札で鋏を入れて貰った切符を握り締めて

まるで外国にでも行くような気分になったものだが

 

電車が非日常の旅ではなく

単に乗るだけのものになってしまったことが一番寂しくもある