■ 2004/07/03 (Sat)会社のHOMEPAGE管理人室から
船は、香港に入港すると、トラブルを起こし、修繕することになったそうです。
部品を取り寄せるのもやはり船ですから、そのものが届くまでは
その寄港地に長く滞在する、というのは、その頃は当たり前のことだったようです。
香港に滞在中、後の路銀の足しにするために
約1000円ほどの時計を30個ほど買いもとめたそうです。
まあ、時効だと思うので、有体にいえば、密輸、ですね。
大陸を一人で歩くと、気が大きくなるようで
青年だった夫は、もっといけない事に手を染めるのですけれど、それは、またのお話で。
香港、台湾、そして、新嘉坡、バンコク と、インド洋を近道する為に
マラッカ海峡を抜けるので、夜、ギャングに襲われたり
また、ベトナム戦争のさなかでもあったので、余波で狙撃されないように
デッキや、室内の明りを全て消して航行したのだそうです。
東京湾でも、夜、明りをすべて消して航行する、というのは
自殺行為のような危険なことですけれど、海の上を旅する
というのは、それだけ厳しいことなのでしょうね。
船の乗務員は、フランス人と、中国、そして、香港の人たちが主で
日本語が判る人はいなかったということです。
食事は、食堂でするのですが、ウエイターはフランスの人で
日本人にフランス語が解らないと思ってか、ウィサバ、
と、自分で返事をしていたそうです。
しかし、さすがフランスの船だけあってか、
貨客船であった為か、
ワインと、パンは、好きなだけ飲んだり食べたりすることが出来たそうです。
備北民報 http://www.bihoku-minpou.co.jp/hanbai.htm の藤井哲、
という方の続きに、
『このころの船では一等、二等船客と三等との差はものすごくあった。
名称はすでに三等船客とは言わずエコノミー・クラスとなってはいたが、
我々はいわば荷物扱いなのである。三等船室は船の最後尾甲板下にあり、
私達の室は八人室で二段ベッドだった。
乗る前、私は日本人は私一人かと思っていたが、
エコノミーは若い日本人でいっぱいで、
そのほとんどがインドのボンベイからヒッチハイクでヨーロッパへ行く若者だった。
このコースが最も経済的だったからだ』
と、書かれている通り、あまりお金のない顧客が多く乗っていたそうで、
夫もまた、二段ベッドで、八人室にいたそうです。
そんなわけで、飲み放題のワインを一度の食事のときに、
二本も開けて、みんな酔っていたそうです。
また、フランスパンというものに馴れていなくて、
口の中を傷だらけにして食べたそうです。
フランス人のウェイターがちりとりを持って、
パン屑を掃きながら来るたびに、ウィサバ、といい
新しいお代わりを持ってきたそうです。
夫が船で覚えたフランス語は、ウィ、サバ、そして
メルシーの3語だけだったそうです。
===============================
夫はここでフランスの船員によりチェスを覚えるのだが
チェックメイトになりそうになると、キタナイ技で負けないようにすると
そんなふうに語っていた
その為に夫にとってフランス人は勝負事にキタナイ奴と認定されてしまった
約800人の文を読み返すと
私は夫に逆のコースからの聞き出しをしていたようで
夫は実際には二度旅に出て、一度目に帰国した後
もう一度旅に出ていてその時のパスポートが燃やされてしまったようだ
アフガニスタンの子どもの力になりたいと思ったのはタイの
野村さんの行動に触発されてのこと
日本への直行便に乗り遅れたのが理由
その時に野村さんとそれまでに旅をした国のことを話していて㋨決意だったようで
記憶が曖昧な人間に物事を聞き出すことの難しさを改めて実感した
また、記憶というそのものが年数がたてば曖昧になるので
文章として書き留めておくことは大切ということも学んだ
フランスのマルセイユからケープタウンの沖を航行した船に乗っていたのは
帰りの船旅で
二度目の旅はイギリスから飛行機で帰国して終わったと雑記帳に書かれていた
この旅で夫はウイ、サバ、メルシー以外のフランス語を覚えた