たそかれ | ミナミのブログ

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のんびり、、まったり

2008-04-27のブログから

 

氷川丸が現役で海の上を走っていた頃の船長さんと

私の父は友人だったそうです。

母が、戦後のドサクサ時代に、横浜の、チャブ屋街の近くから

父の郷里である、鹿児島県曽於郡という、今で言えば、

ブラジルに行くくらいの距離感のある村にお嫁入りして

長女が生まれたときに

その船長さんから、当時では珍しい

外国の赤ちゃん用グッズがお祝いに届いたそうです。

ところで、私が子どものころ、女子校で学んだ

赤ちゃんの扱い方の中に、オムツの当て方があったんですけど

其れは、今30代以上の方が覚えている、輪になっているものではなく

真四角な白い布でした。

母のところに届いたのも、ですから、真四角な布で。

父は、その村の庄屋の一人息子で、周りは親戚縁者と小作人ですから

当たり前といえば当たり前だったのかもしれませんが

横浜からサザエの頭みたいな髪型をして嫁いでいった母には

仰天炸裂な出来事が多々あったそうで

その中でも、その、お祝いに貰ったオムツをさお竹に干しておいたら

その日のうちに一枚も無くなり、翌日、皆が頭に被っていたんだそうです。

いろいろあって、父は母と共に横浜に来て、生涯を終えたのですが

その途中で奇遇にも、横浜の山下公園でその船長さんと再会したわけです。

なわけで、私は子どもの頃、氷川丸に遊びに行くと

お菓子とかいろいろ貰って、楽しかったです。

その氷川丸の船長さんが話してくれたのか

他の方だったのか忘れましたけど

当時、氷川丸はホテル業もやっていて、大学受験の頃になると

その数ヶ月前くらいから、地方のお嬢さんたちが

方言を矯正するために、宿泊するのだそうです。

そして、晴れて山手の女子大生になるわけです。

今は、テレビも普及し、かえって方言を良しとする風潮があるので

ワザワザ直すことも無くなって

泊まる人がいなくなったのが理由ってな訳ではないでしょうけど

華やかな氷川丸の時代は終わりを告げたのだろうと思います。

氷川丸を停泊させるずっと前に

その場所の水質調査をするために海に潜っていた

海底二万マイルに出て来そうな潜水夫が三名で海から上がってきて

帽子(?)を取って煙草を吸っている姿を見て

あの中身は人間だったのか、と、素朴な感想を抱いたのは、小学一年の春でした。

 

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数日前にこの氷川丸の船長が代わったというニュースを見て

久しぶりにこのブログを思い出した

 

この氷川丸はあくまでも係留中の船なのだそうで

だから今でも船長なのだと思う

 

縁というわけではないが

海底測量の話を

今は俳句の番組で料理上手としてテレビに出でいる芸人さんからご自身の祖父

という言葉を聞いて、あの海底人の中にこの人の祖父がいたのかと

その彼に妙な親しみがわいたのを覚えている

 

私の好きな山下公園は、陽が落ち始め、人々が家路に急ぎ始める

未だビルや街に賑やかな明りの灯らないその頃

 

誰もいなくなった公園のベンチに腰掛けながら穏やかな海を見ている時間

 

漢字では黄昏と書くが、誰ぞ彼、と、人の顔の区別がつかなくなる時間

大人たちはこの時間を逢魔が時と呼び、外で遊ぶ子ども達に帰宅命令を出す時刻

 

とっぷり陽が落ちた頃、潮騒の音や舫と船の軋む音を聞きながら

明りの灯る家に帰る時、妙に大人になった気分で歩いていた自分を思い出す

 

郊外に転居した今は自宅の近隣さえ足許が不用意で

出かけることを躊躇するのだが

年に数回、小一時間の距離にあるみなとみらいのホテルに泊まり

誰ぞ彼と彼は誰時を楽しんでいる