子どもの頃、叔父が珈琲豆を持ってきて、それを母に頼まれて
石川町のお店に挽いて貰いに行っていた
暫くの間焙煎し、機械を手回しで挽きだすと
あの、大豆の腐ったような豆からとても良いい香りがしてくるのが不思議だった
この豆はたぶん、密輸だったと思う
叔父の話では新港ふ頭で荷揚げされた荷物は戦後上屋と呼ばれた赤煉瓦の
国営保税倉庫に貯蔵され、検品を受けてその後新山下の倉庫街に移され
日本の市場に出回るのだが
その当時、所謂沖仲士として荷物の運搬をしていた叔父達は
珈琲豆を持ち帰るという悪事を働いた
大きな袋に入れられた珈琲豆はそのままでは匂いはしない
それを良いことに馬車に積み込んで、税関の門番に
これは大豆が腐ったから捨てに行くと
そう言って持ち帰ったのだそうだ
これは今から60年以上前の話で、今どこかに通報されても
証人も証拠も無いので、単なる私の創作みたいなものだが
その豆はそれと分かりながら挽く店があり
その粉は本牧界隈の喫茶店で提供される
その豆を挽く店は、元町通の先の石川町にあり
その当時の石川町駅の南口の裏側は
崖の下にあるためか、いつもじとじとしていて筵が敷かれていて
小さな旅館が隙間なく建っていて、いつも汗臭い匂いがしていて
当時の真金町や曙町と同様に子どもが行く環境では無かった
高校に通う頃になって、すっかりと様変わりした様子に驚いた思い出がある
その頃の駅前には駄菓子屋やお好みを焼く小さな屋台のような店が
数軒だけ建っていた
今はもっと様変わりして、当時の面影など微塵も無くなっている
珈琲豆を煎って貰って、喫茶店に持っていく
この珈琲豆は古く日本が鎖国している時代の出島には既に用いられていたそうだ
その後、明治になると東京に可否茶館という名前の喫茶店が出来る
この店の創業者鄭永邦という人は、北京から亡命してきた人の子孫で
外務省の外交官だったとのこと
この可否という名前は
フランスで珈琲を提供する店が元々
時代の文化や文学や芸術を語り合う場所だったことでの
ディベートの意味があるのではなかろうかと思う
横浜にはそのままに珈琲大学院という店もあるが、東京の出版社にいた頃
ビルの地下に有った喫茶店では女性の入店をお断りしていた
なんとなく差別ではと思ったが、最近喫茶店に行くと何となく理由が分かった
喫茶店で居合わせる女性同士の会話には可否など存在はせず
当然政治や文化に対しての討論もなく
そうそうそうなのよ という会話が止め処なく繰り返されている
たぶん、私もそちら側だと思う
叔父は珈琲の話と一緒に蓄音機とレコードを百枚ほどくれて
落とせば割れてしまうレコードから私は戦前の多くの歌を聴いて育った
だから大人になってもマックザナイフなどを聴きながら
珈琲は豆から挽いてサイホンで沸かして飲むのが好きで
日曜日の事務所は私設の喫茶店のような雰囲気で心地好かった
その喫茶店に珍客が現れたのは夫が海外の子ども達が日本で働けるよう
シンガポールやベトナムなどに頻繁に出かけていた頃
当時、各銀行への交渉事は全て私がしていたわけで
支店長の新任のご挨拶も当然私が行う
せめて心証を良くしようと、挽いた珈琲でおもてなしをすると
皆さんが喜んでくれた
が、一人の支店長が、ある日曜日に突然やって来て
お休みモードで仕事をしていた私は慌てた
すると、気にしないでください、珈琲を飲みに来ただけですから、と
私はとりあえずいつものように珈琲を入れて差し上げると
その人は目を瞑って香りを確かめるように飲まれている
それが毎週、一月ほど続いた
それだけではない、定年退職をされたというのでホッとしていたら
平日に、珈琲を飲みに来ました、と
結局外交の青年に伝えて、本社の方からお叱りが行ったそうで
お見えにならなくなった
多忙な夫に話すまでのことではなく、と言って、エンドレスになりそうで
微妙な恐怖感が湧いてくるわけで
珈琲を入れるたびにそのことが思い出されて
今はそれも懐かしい思い出の一齣になっている
そして山下橋の袂にはかつて馬のための水飲み場があったが
すっかり大人になった今でも、そのあたりに立つと
若い日の叔父たちが馬車で目の前を駆け抜けていく姿が浮かんでくる