洗濯で盛大にやらかす | ミナミのブログ

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のんびり、、まったり

ブログを書こうとしてパソコンを立ち上げたら

目に入って来た文字

 

King&Princeの永瀬簾君が洗濯物のポケットにティッシュを入れたまま

洗った模様

 

あらま、永瀬君も同じ目に遭ったんだと言ったら

隣でお茶を飲んでいる娘に、同じ目に遭ったのは私、と叱られた

 

夫が施設に入ったので家事の分担化を図っているのだが

家事の大半は娘が引き受けてくれて

私はたまに庭の見回りとお使いと、食事の支度のみになっている

 

こんな私でもその昔は掃除洗濯食事の支度の

家事三点セットはそれなりに熟していた

なので洗濯でやらかす場面は多々あったなんて思いながら

SNSの文章を読んでいたら

昭和の時代の男尊女卑という言葉が出て来た

 

そこでふと思った

私が子どもの頃、昭和のド真ん中あたりの夫婦

父と母を見ていると

母は結婚前は大手の会社の総務の仕事をしていたそうで

結婚後は専業たまにパートに出かけていたが

生活費は父が持ち帰る封を切らない給料袋の中身と恩給

いずれも丸ごと母が受け取り、父は数百円のたばこ代を貰っていた

今に換算すると数千円だろうか

 

その中から一向に懐かず愛想の無い私を自転車に乗せて

麦田のトンネルの先の麦座という映画館に児雷也を見に行ったり

クリスマスの飾りつけを買ったり、姉達が出かける度にお守りを買って来たり

木曜日には海軍の習わしとかで牛肉を買って帰って次姉にカレーを作らせたり

お正月のお年玉を貯めたりしていた

 

お小遣い以外のお金の使い方について父が何か注文を付けていたという話は

聞いたことが無かった

 

我が家だけでなくお隣のおばさんも何かを買うときご主人に相談して

などということは聞いたことが無かった

横浜の定番内職のスカーフの縁かがりで終日ミシンを踏んでいたけれど

母によるとそのお金は踊りの月謝や旅費になっていると話していたそう

 

父や隣のおじさんは週六早朝お弁当を持って仕事に出かけ

母たちは絞り機の付いた二層式の洗濯機が売り出されるまでは

盥と洗濯板で洗い物をして

二本の丸太を建てて、その間に竿をかけて、サンマタで高く掲げて干す

 

それが終わると家の前の日向でおしゃべりが始まる

それがひと段落すると母と隣のおばさんは連れ立って本郷町の公設市場に

買い物に行く

 

なので私と同級生の隣の男の子とはお弁当の中身が時々バッティングして

思春期の少年はそれをからかわれては昼食中に暴れて先生に叱られていて

気の毒だったが

当時の子どもは親に注文を付けられるほどにはこなれていなかったので

私もお弁当のおかずに注文を付けるなどというだいそれたことはしなかった

 

そんなことを思い出しながら、男尊女卑とはどんな状況を言うのだろうと思った

 

父は男尊女卑としては右に出るものがいない、九州も鹿児島の

それも八代は続いている庄屋の一人息子として育っていたが

母が身勝手で娘二人だけ連れて遠い横浜に帰った後は

ひとりで五年近く三人の小学生を育てて来た

 

休みの日にはみんなで山下公園から出る船で富津に海水浴に行き

帰りには船着き場の脇で売られる甜瓜を買い

子ども達に食べさせるのが楽しみだった模様

 

懐きもしない私でさえ映画にも海水浴にもつれて行き

他の姉妹、妹のことは食事中は常に面倒をみていたし

姉たちが出かけるときは小遣いを与えていた

 

母は相談することなく洗濯機を買い、冷蔵庫を買い

掃除機を買い、そして暇になると五月三日のパレードに出るために踊りを習い

小学校時代からの友人たちと泊りがけで出かけていた

 

ここ数年、隣のアパートに住んでいる若いご夫婦が

子どもが生まれた後に離婚し、転居していうということを繰り返し

大家さんが何かの祟りかと言っていたけれど

その別れたご夫婦の奥さんは三人とも、共働きで

幼い赤ちゃんを保育園に預けて早朝出かけ、赤ちゃんと一緒に帰宅し

赤ちゃんと一緒に買い物をして

8時ごろになると男の人の声で赤ちゃんを叱る声が聞こえるというパターンが

繰り返されて

いつの間にかその声が聞こえなくなり

奥さんから離婚しましたと報告される

 

時代は昭和をとっくに過ぎて、平成、そして令和になって

男女雇用機会均等法も出来て、男女平等といわれて早30年以上

果たしてこれを平等というのだろうか

私から見れば今のほうが何倍も男尊女卑の時代になっているように思える

 

そんなことを書いていたら、娘から洗濯で盛大にやらかさないよう気を付けてと

念を押された