ふらんすに行きたしと思へども | ミナミのブログ

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のんびり、、まったり

これは萩原朔太郎という明治、大正、昭和を生きた群馬県の詩人

 

群馬県には古くから上毛新聞社がある

朔太郎はその新聞社に長く短歌を寄稿していたという

 

この群馬県は私の祖父が生まれた地でもある

祖父の生家は祖父の父が再婚した後に早世したとかで

新しい母の子どもが代を継いだそうだが

祖父が長男であることに変わりなく

生地を離れた後も、祖父の戸籍には多くの人の名前が羅列されていた

 

祖父の姉妹、その子ども、従妹、伯母、小母、従姉、

この人たちが何か事を起こすと、祖父は身元保証人として

面倒をみなければならなかったそうだ

 

その戸籍は嘗て母や父の家系図に興味を持った次姉が取り寄せて

今も我が家に残っているが、手書きの旧仮名遣いはなかなかに読み難く

 

群馬から東京に出て、早稲田に入学し、共同で作った新聞社を失い

横浜の地に来て、港で通訳をして暮らす祖父は

いつか船で海外に行きたいと思っていたそうだ

 

その海外への船の船長をしていた父と出会って、母を薦め

そして私たちが生まれた

 

祖父の娘である母はそんな父親に似たのだろうか

恐ろしいほど何回も外国に出かけた

 

ある時など、海外でパスポートのページがなくなり、新しく発行された

パスポート二冊持って帰ってきたりした

 

その母が一番最初に行ったのは、次姉が元町商店街で当てたフランス旅行

成田空港は出来ていなかったと思う

 

そのことで母は旅の経験者である夫に、パリはどうですか、と聞くと

夫は、数日前に紹介した中華の鍼のことを思い出したらしく

ハリはだめですねと答えていた

 

母は何がダメなんだろうと悩んだそうだが

後に話がかみ合っていなかったことを知って、呆れながら笑っていた

 

その母が、私にフランスに一緒に行ってくれと言ってきた

 

その時人言葉に出たのが、ふらんすに行きたしと思えども

 

当時、会社を興したばかりの夫と、生まれたばかりの息子と

買ったばかりの家と、従業員たちと

何をどうすれば私が一週間も母との旅に同行出来るのだろうか

 

その思いは母が海外に行くたびに抱いてきた

 

例えばムーランルージュ モンマルトルの丘

そして次々と増えていく母が私と共有したい景色

 

母はやがてそれを見せるために何枚もの写真を撮ってくるようになった

 

途中から姉たちや私の息子が同行しても、母の思いは変わらなかったらしく

多くのお土産と化していった

 

幾つものブランドのバック、香水、コート、、靴、化粧品

 

その軍資金は私から出ているのだが、実際は夫から

夫はそのことについて一切問うこともなく、たぶん意にも介していなかったと思う

 

そのうち母は海外で私の名前で買い物をするようになった

 

それ故にいろいろなお店からクリスマスカードが届く

それもクリスマスカードだから封筒も、中身も華やかで

 

それを伝え聞いた近隣の人が私が頻繁に海外に行っていると勘違いして

頼みごとをしてくる

何々の香水が、何何のバッグがいいわ、と

何故お土産として貰う前提で話してくるのか謎だったが

 

そのうちに何故か、自分ばかり出かけて、というふうに変わっていた

 

その経験から家の中のことはあまりご近所には語らないほうが良いというのを

学んだ

 

友人は私の見た目が派手だからといい

本当は鵞鳥のように見た目優雅に泳いでいても足は懸命に掻いているのよね

と、褒めているのか貶しているのか

 

母は遺した手帳には、記憶の衰えを懸念してか、今まで行った国々や

読んだ本や新聞、テレビで報じたことを事細かく書き溜めてあった

 

その内容と母の遺した写真と、Instagramで伝わる国々の風景の動画を見ながら

私は行った気分の旅を楽しんでいる

 

生きてきた来し方を顧みると人生そのものが旅でもあったりするから