来客 | ミナミのブログ

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のんびり、、まったり

夫が最初の家を買い、会社を個人から有限会社にした頃

夫の母が泊りに来るという連絡を頂いた

 

夫は出迎える私に、食事は出前を頼み、昼間は机に座って

落書きでもよいから何かを書いていて、と言いおいて仕事に出かけた

 

そういわれても、と思い、お茶を用意したりしてはいたが

途中で電話をくれた夫が再び、食事は出前を取るように,と言って来た

 

私は夫に従い、出前を取り、事務机の前でノートに文字を書いていた

 

それを見ていた夫の母は泊まることはせずにほかの息子の家に行った

 

昼間はいつかかってくるか分からない営業の電話番

朝5時には出かけてしまう夫の朝食と

まだ一歳になったばかりの息子と、住み込みの従業員達の朝と夜の食事

いつ帰るかは分からない夫の夜の食事

 

その支度のために

店の無い街から一歳の子どもを背負って

一時間に一本のバスで駅前まで出なければならない

そうなのに、現場が終わり、新しい仕事を得るために接待をして

時には午前四時になって帰宅しても

造りたてのおかずと温かいご飯を食べたいという夫

 

我がままだなぁと思っていたが

夫はちゃんと私のルーティンを見ていたようだ

 

真夜中に夫が帰って、息子がぐずっていると

食事の支度の間夫は息子を連れてドライブに行く

その分、自分の親族への接待はしなくてもよいということだったのだろう

 

問題は監督さん

名前を出せばどなたでもご存じの建設会社の監督さん達は

何の前触れもなく来ることが年に何回もあった

 

中にか日曜日のたびに釣りをして、釣りをしているうちに見つけたと

まるでトドみたいに海に潜って大量に捕まえた蟹や大穴子を料理してと持ってくる

外注の職人さんや従業員に交じって懸命に穴子の天ぷらや蟹を食べている

若い監督さんがいたりして

 

目のなれない頃は、この人誰だっけと思いつつ

声で、ああ、あの会社の監督さんだと分かる始末

 

これは当人には言えないが、後年、その方の会社に行き、書類を渡す際に

すっかり髪の毛が消えた後頭部を見ながら、この方でいいのだろうかと

声をかけそびれている時、声を聞いて、ああ、と思い出せたのは

若い頃の経験がものを言ったのだろうと思う

 

一番困ったのは、酔った夫と一緒にやって来た部長さんだった

上場の会社にお勤めなのだから、どこかホテルにお泊りになればよいのにと

慌てて一つの部屋を片付けて

知り合いの、昔銭湯で販売していた月の友という布団屋さんに

新しい炬燵掛けを届けて貰い

どうにか体裁を繕って待っていると、やって来た部長さんは部屋を見渡して

奥さん、日頃掃除あまりしていないでしょうと

その晩は怒りで胃がキリキリと痛んだことを今でも思い出せるが

その後お電話をすると、とても好意的に会話してくださったので

私の接待は悪くなかったのだろうと思う

 

家に見えていた監督さん達は皆さん同様に好意的に会話をしてくださり

幾度となく助けられたりもした

 

やがて『団塊の世代・・』のブログの社長さんの会社の

パーティに出席するために年末になると10日間ほど

社長兼営業マン兼現場責任者である夫が不在でも

変わらない売り上げを維持して行けたのはこんな経緯があったからだと思うと

これも夫の手腕に思えて来た

 

夫が50代になった頃、会社を引退されたという部長さん達が

夫は元気ですかと時折電話をくださったが

それもまた夫の技量だと思ったし、嬉しくもあった

 

そんな経緯があって、私はよその家に泊まりに行くのが苦手だった

だから息子夫婦の家にも泊りにも、遊びにも行ったことは無い

 

そうでありながら、夫の実家には当たり前のように泊まりに行っていた

夫の両親がいるから当たり前と思っていたが

夫の奥さんや子ども達にとって私たちは来客以外の何物でもない

兄弟や親族の多い家の長男の一家は大変だなあとしみじみと思う

 

ただ、そういう家の子には思いやりがあるというのは

たぶんいろんな思いを積み重ね、電話という機械を媒体しない

直接の声での会話が創り出している空間がなせる業なのだろうと思う

 

夫の兄の長女も長男もとても思いやりのある優しい大人になっている

 

因みに夫の実家に行ったときは、お正月は舅と男兄弟が鍋を作り

夏には姑が春の採れた筍や茸の煮物を作ってくれて

最初の正月に鶏の手羽先の唐揚げを作ってあげて欲しいと夫から頼まれて

鶏肉屋さんを聞くと、何羽潰せばいいのか、と舅に言われて以降

姑が亡くなるまで料理などしたことは一度も無かった

 

いつかそのお返しに姪や甥に何か手作りのモノをご馳走したいとは思うのだが