能登の大地震で、集落単位での避難を予定しているというニュースを見て
十津川大水害の話を思い出した。
明治22年、和歌山の紀伊半島を襲った大水害で、洪水や土砂災害が誘発され
その地に住むことを諦めた人たちが北海道に集団で移住し
新十津川村を作ったという話
災害で住民が集団で移住する話は横浜にもあった
当時、埋め立てたばかりの新しい土地に、九州の炭鉱の事故で仕事を失くした会社が
従業員の家族と共々、丸ごと移住して来たという
私が子どもの頃、ハーモニカ長屋と言われた、一階と二階で世帯の違う
建物がいくつか並んで建っていたが、そこに住んでいた人が皆そうで
裏手には重役が住む家も建てられていたとか
その建物自体はつい最近行ったときにも
未だ、取り壊されることなく建っていたから
少なくとも半世紀以上経つわけで、
見た目よりはるかに堅固な建物だったのだろうと思う
横浜にはまた関東大震災の被災者のために建てられた
同潤会アパートというものもあった
その一方で、今、団地の限界集落化が問題視されている
私達が嘗て暮らしていたところも、6割が70代の高齢者だとか
その上閑静な住宅地を目的に、喫茶店さえ建てることを禁じる条項で
気軽に食べられるお店も無ければ、コンビニも無い
嘗ては車での移動を主にしていたために、バスは一時間に数本
最寄りの駅までは徒歩でしか行かれない
住民は買い物に行くことに難儀をして、空き家が増えていくことで
空き巣の数も日々に増しているとか
他人事(ひとごと)だから勝手なことを書くが
このような場所に被災者用の賃貸住宅を作り、各部落ごとに
集団で移住して貰ったらどうなのだろうと思う
その地で暮らしていくための二次避難
被災して、その地を離れる覚悟
夫の兄は、東日本大震災の時あの原発での避難準備区域の住人になったが
私が何度進めても自宅を離れることは認めなかった
当時義兄はまだ60代だったが
年齢を重ねれば重ねるほど、何代にもわたり共に生き
共に暮らした人と離れ離れになることは難しいことだと思う
今回もそうだが、災害が頻繁化しつつある今
地域ごとに疎開契約を結ぶのも必要になって行くように思う
日頃から行き来していれば、移住しやすくもあると思うし
他人事(ひとごと)だから簡単に言える話ではあるけれど