徒然草の第百九段 高名の木登りという行に
心して降りよという言葉がある
高いところで作業している時は緊張しているので
大きな事故は起きないが
あと少しで地面に足が着くあたりになると気が緩んで
大きなけがをしたりするから、一層気を払うようにという言葉
中学の時この言葉を覚えて以来、私の座右の銘にしていた
私はなりたい職業が有り、入りたい学校が有ったので
中学時代は猛勉強をした
当時、友達と遊んだ覚えも無ければ、流行っていたグループサウンズの歌を
どれ一つ聞いた記憶も無い
学校から帰り、机に向かい、途中夕食をだべると再び机に向かい
そのまま眠り、制服のまま目覚めることもあった
部活は新聞部に入り、風紀委員になり
学業のほうもこのままでいけば推薦も取れると
そんなあるとき、新聞部の部長から一冊の本を借りた
カフカの変身
ある朝男が目を覚ますと虫になっていた
その内容が面白く、つい夢中で読んだ
その内容で部長と話し合っているうちに付き合っていることになっていた
子どもの権利を主張する彼は生徒会長に立候補し
全校生徒の前で穏やかに演説する
その大人の雰囲気に感心していた
ただ、私が憧れていたのは彼では無かった
テストの点数を競う相手
その肝心な彼は、生徒会長になった部長と同じクラスで
本を返しに行くと、わざわざ部長を大きな声でを呼びだしてくる
そのほどに私は肝心な憧れの彼と喧嘩仲間のようになって
色気も何もあったものでは無くなった
卒業の日に一度だけ伝えたいと思っていながら伝えることもなく
思い出の中の人になり、後に高校時代の友人のご主人の同僚になったと聞いた
新聞部の部長は、付き合っていることになっているならデートでもしないかと
一度山下公園の通りを端から端まで二人で歩いた
帰りがけに公衆電話で私の家に電話をして、これからSさんを送っていきますと
ませた対応をしていたのが懐かしい
が、高校時代にその彼から、よかったら来ないかと、文化祭に誘うように
ある会に誘われて、私の人生は全く異なる方向に進むことになった
その集まりは思想的な集団で、彼らが目指したのは三里塚
高2のお正月に、ポストに一枚のはがきが入っていて
それは、君も来ないかという誘いの葉書で
それから先の私の人生は大きく変わっていくことになってしまった
大学受験が終わって、自己評価は合格圏内
大学から高校へも合格内定の連絡が入っていたと進路指導の教師が話してくれた
数日して面接の連絡があり、いくつかの質問の後に
貴女はこの大学には入れません。理由は分かりますね、と
高校に戻ると、伯父の知人である校長先生が何故直ぐに報告しなかったと
そして当時共学になったばかりの大学を紹介して貰えた
しかし、既に気持ちが無かったのだろう、私は日にちを間違えて
その大学に通うことも無くなった
石川町駅から自宅への道を歩いていると、無性に笑いがこみあげてきて
大学へ行けなくなったことが悲しいのかさえ分からなくなっていた
その後当時出来たばかりの短期大学に自己推薦という形で入学の許可は取れたが
行く理由が見いだせず行くことをやめた
暫くして中学時代の同級生に会って受験の話になって
なんで本なんかに興味を持ったのと聞かれた
あれほど頑張っていたのになんで一冊の本に気を抜いたと
言葉が無かった
私の心の中に出来ていた隙間
そうか、心して降りよとは、一点に集中せよということなんだ
友達と遊ばなかったのは私だけではなく
夢中で勉強していたのも私だけではない
自分の人生を決めるのは他人ではなく自分自身なのだと
そう思うと、何故か不思議に後悔という思いが消えていた
過去を思っても自分の今を一㍉も変えることは出来ないと悟ったから
心して降りるのは、降りきるまでのこと
それが出来て初めて、高尚な木登りになれるのだと