大桟橋から見えていた富士山がホテルの建設で見えなくなってしまった
幼い頃住んでいた場所は米軍基地の側で、山手のドルフィンのお隣の町内で、その後は下町だったから、海は近くに有った
私が初めて見た山は父の郷里で、私が生まれたという産院がある高隈山
次姉から教えられたその山は雲海の向こうに黒々とした頂きが見えていた
余程印象深かったのか、私はその景色を今も鮮明に思い出せる
次に見たのは夕暮れの富士山
父や姉たちといわゆる再構築した家から、幼い頃暮らした家に戻ろうとした私は妹を連れて家を出た
山手の道を真っ直ぐ歩いて、平楽の、通っていた幼稚園の辺りまでたどり着くと夕日の中に大きな山が見えた
と、同時にお巡りさんから声をかけられた
家に帰ると母からしこたま叱られた
ここにいたくなかったら一人で出ていけと
隣のおばさんが慌てて私をかばいに来て、家出じゃないのよね、と話してくれ、そのあとは覚えていない
ただ、富士山は覚えていた
もう一度見たい
その思いは小学校の遠足で叶い、結婚してからは幾度もゴルフに行き、家族とドライブて見てきた
千葉に行った時にそこからも富士山が見えたことに感動した
再び下町で暮らすようになって、大桟橋からビルとビルの間に見える富士山を見たくて、見晴らしトンネルを抜け、山下橋をわたり、大桟橋まで、自転車のかごに犬を乗せて毎日のように出掛けた
夫の病気のために転居した町の近くからは富士山だけでなく、丹沢連峰までくっきりと見えた
毎日のようにその山並みを見ながら、大桟橋の富士山が懐かしくなり、見に行こうかなと思っていたその頃、横浜市役所の高層ビルで富士山が見えなくなるというニュースを聞いた
結局いくつかの高層ビルで大桟橋から勇壮な富士山を見るのは不可能になった
何で市役所を高層ビルに、と、腹が立ちながら、東日本大震災の後に、町内会の人が話していたことを思い出した
横浜の繁華街で津波警報が出ても、誰も助けることは出来ないから自力で逃げるしかない、と
あの東日本大震災の時も桜木町の岸壁や中村川の水位があがっていたことを思えば、だれでも駆け込める市役所の存在は必要かもしれない