五十日(ごとおび)
そう聞くと道路が混むことをイメージする人が多いと思います。
実際、昭和の時代も五十日になると車が混んで当たり前という感覚でした。
五十日(ごとおび)とは
戦前、東京の職人の支払いは一日、五日、十日、
十五日、二十日二十五日、晦日とされて
その日お店の人が掛け買いの代金を集金する日だったとか。
一日と十五日にはまた神棚の掃除をして
職人などにお餅や御節やお酒の振る舞いをする日で。
時代の変遷とともに住み込みで家事を手伝う女性も
学業をするために他人の家に住んで
下働きをする男性もいなくなりましたが
多くの会社は未だに五十日を基準にして支払いをしているのだから
ちょっと不思議ですね。
その上アメリカでは週給制のところが普通にあるのに
日本では五日に一度の風習は廃れて、大概が月払いになっていて。
あともう一つ、バブルの頃のサラリーマンの標準に合わせて
祝日や祭日が可動式になってしまったこともとても不思議だと思います。
嘗て国家的なお休みには家並門の前やバスやタクシーに国旗が掲げられて
いましたけど
1985年から国民の休日としてお休みを多くするために
日曜日に近い場所に変えていったので
1月15日が成人の日とは決まらず
その上、大きな宗教問題も起きて、国旗を飾る家は少なくなり
正しく飾る家はインフレキシブルなイメージを与えてしまい。
学校の夏休みにしても80年代の初め頃まで
7月20日、海の記念日からと決まっていて
私より年上の団塊世代以上のお姉さん達はその準備として
家を奇麗に掃除して窓ガラスをピカピカに磨いていたものです。
そして7月20日から暑中見舞い、8月7日頃の立秋には
残暑見舞いになるということも覚えました。
1961年に当時山下公園に係留することになった氷川丸の
船長さんが嘗て外洋航路の船長であった父のところに訪ねてきて
今年の7月20日、私の誕生日に花火を揚げますよと言われました。
実際は海の記念日で、そのための花火だったのですが
後年花火を揚げる日が毎年変わり
何となく損をしたような気分になったのが懐かしいです。
思えば24時間開店するセブンイレブンは
1975年に出来た福島県の店が始まりで、
その頃から年中無休のお店が出来
正月2日の初売りも無くなり
松の内という正月7日まで休む店どころか三が日さえ休む店も無くなり
家に結界や松を飾る家も少なくなっていったように思います。
団塊の世代の夫達はしっかりと正月松の内を過ごし
おせち料理を作り、お屠蘇も用意して
子ども達にもご近所の人にお正月のあいさつをさせて
ご近所の方達からお年玉を頂いていました。
今はお隣にどんな人が暮らしているかさえ分からなくなり
ご近所の子どもにお年玉をあげるというのは
相当行き来しなければすることもなく
あいさつを交わすことさえ無くなりました。
昭和48年の警察の標語に
狭い日本そんなに急いでどこに行く というのが有りましたが
今の時代は日々形が変わっていき、
昨日の大喪の礼のお話や祝祭日の大半が可動式になったことで
日本の文化はどうやってこの先の人たちに伝わっていくのだろうか
100年後には誰も日本独特の文化を知らない時代が来るのではと
そんな思いに駆られます。