俳句の日 | ミナミのブログ

ミナミのブログ

のんびり、、まったり

今日は8月19日で、俳句の日

 

私が初めて俳句を作ったのは、小学1年の5月に敗血症に罹り

後に骨髄炎を発症した為に2年近く入院することになり

テスト進級ということで小学校の校長先生が病院に来てくださり

勉強を見て頂いた時ですから、7歳の終わりだったと思います。

 

小学校に入る1年前までは

山手のドルフィンはと歌われる、磯子の根岸台にある喫茶店の隣町で育ち

その周りには米軍のハウスが有り、遊ぶ子は米軍兵士の子で

その子たちと一緒に行った幼稚園にはアメリカのシスターがいて

持っている絵本はPinocchioとPeter Panで

小学校に入学したときには手はお膝も出来なければ

何か言いたいことが有れば手を挙げて発言して

自分の意見はちゃんと言いましょうと育ったもので

校長先生であろうと担任であろうと、疑問に思うことは全て直球でぶつけて。

 

母は担任から呼び出されて、今流にいえばいろいろな障害児と言いたかったのでしょうが

オタクの娘さんは頭がおかしいと直球で言われてすごく悩んだそうですが

母からそれを言われたのは私が子育てする頃にでした。

 

その先生にはとてもお気の毒な話ですが、私は大人と普通に会話する子どもだったもので

校長先生が葉桜の木から何かを採っている様子に興味を持ち、私にもさせて欲しいと懇願し

一緒にいた男の子と、アメリカシロヒトリの掴み方を教えて貰い、せっせと集めて

母に見せるために紙袋に入れて教室に持って帰り、羽板式の机の中にしまっていたのを

後ろの席の子に見られて、せんせー、ワタシさんが机の中に何か隠していますと報告されて

一応は抗ったのですが、その袋を開けた先生は卒倒してしまって

それ以降学校で見なくなってしまったので、たぶん、校長先生が代わりに来られたのだと思います。

 

校長先生は長い指で五、七、五、という文字と季節の言葉を教えてくださり

たぶん掛け算の九九や漢字も教えてくださり

私は落第することなく小学校を卒業することが出来たわけです。

 

その後、祖父が赤い手帳を買ってくれて、そこに俳句を書くように教えてくれて

高校に入る頃は大野燐火のお弟子さんだった伯母の吟行に伴い山梨の昇仙峡まで吟行に行くようになり

その伯母が従姉のために俳句の結社を創るというのでその準備の句会に参加し

その従姉のために自宅を句会の場所に提供し

その従妹からあらぬ疑いをかけられて結社を離れ

そんな時に癌の末期になった伯母から

もう一度私の家での句会がしたい。

もう一度句会が出来るかしら。

そんな電話を毎日頂き

 

大丈夫ですよ。必ずまたできますよ。

元気になったらまた伊豆の花火を見に行きましょう。

そんな言葉を繰り返し。結局伯母は再び俳句の会に来られることなく

霜月に逝ってしまいました。

 

伯母の病院に毎日のように従姉が来ていることを聞いて

伯母の葬儀にもまた、私がいないほうは良いだろうと判断し

私はお見舞いに行くことも、見送ることもしませんでした。

 

伯母と従姉は二人性格がよく似ていてい

お互いに不可欠な存在なのに、誰かが間に入ると悪態を吐く。

 

もし私が行って伯母が従姉に悪態を吐いたら

そう思うと二人の時間を大切にしてあげたいと思ったのです。

 

従姉も伯母も、それぞれに美しくて賢くて

ただ、双方素直ではないことは確かでした。

 

伯母が亡くなってから初めて自力で横濱俳句俱楽部というホームページを作り

季語や用語を紹介し

今もアメバブログにその時の記事は残してありますが

ここ数年気がつけばさっぱり俳句を作らなくなっていることに思い当たりました。

 

あと何回俳句の日を迎えられるかは分かりませんが、そろそろ初心に返り

あの時の校長先生のように指を折りながら俳句を作ろうかと思う今日この頃です。

 

雨止んで緑に一つ茄子の色 海涛

 

あなたもスタンプをGETしよう