団塊の世代と言われる約800万の中の一人の男が夢を見てその夢を叶えた話(石油) | ミナミのブログ

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のんびり、、まったり

団塊の世代の人は二十代の頃に

二度のオイルショックに見舞われます。

最初は1973年の中東の産油国での値上げ。

二度目は1970年代の終わりのOPECの値上げに加え

イラン・イラク戦争によって。

 

石油が無いことで品物が出来ず、モノも運べず、物価が高騰し、

電気も不足し、ガソリンは値上がりし

通勤電車の間引き運転。時間差出勤。職場の電気の節約。残業の禁止。

ネオンサインの消灯。深夜テレビの停止。深夜営業の禁止。

雑誌の販売中止。ドライブの自粛。プロ野球も中止。

新聞には日を追って一時帰休、大量解雇の文字が溢れ。

繰り返される大停電。

 

夫もまた数か月仕事のない状態が続き。

 

時の総理の、紙が不足しているという言葉で

トイレットペーパーの買い占めを発端に店からはいろいろなものが消えて。

 

当時子育てに関しては紙おむつでなかったことが救いでした。

 

妊娠してからだいたい五か月後くらいの

安定期の戌の日に神社にお参りに行き、

岩田帯という晒の布を一反頂いてきてお腹に巻き

子どもが生まれるとその布をおぶい紐やおしめにして。

おしめには着古した浴衣を解いて使ったりもしたものですが

私は子どもの頃のご近所の関係と、高校での授業で

外国のアニメに出てくる赤ちゃんのようなオムツを教えられていたので

少しばかり苦労した思い出が有ります。

 

アメリカと言えば、外洋航路の船長だった父が、母がまだ鹿児島にいる頃

一番上の姉のために外国からオムツを買ってきてくれたのだそうですが

母がそのオムツを干していると

翌日、本家の女性たちが皆で頭に被って歩いていたと話していました。

母にとってはいろいろな意味でショックだったようで

もしかすると私と妹を連れて遠い横浜まで帰ってしまったのは

それが理由だったのかも知れません。

オムツとは知らずにお洒落のつもりで頭に被っていた本家の女性の皆さんも

現実を知った時には相当ショックだったのではと思いますが。

 

因みにパンパースという紙おむつが初めて輸入されたのは

1977年のことです。

 

介護に関しては

当時はまだ介護保険などなく、親が年を取れば自宅で看るのが当たり前で、

そう出来ない人は

個人的な紹介で入院施設のある個人病院などに預けるというのが

一般的でした。

 

お年寄りには赤ちゃんのような晒や木綿の浴衣地では間に合わないので

バスタオルや布団の布や、時には帯などを使っていたようです。

その上、洗濯機で洗う訳にはいかず、手洗いが必須だったわけですから

当時介護された方々は相当苦労をしたんだろうと思います。

 

オイルショックの頃のことを書いていて

当時都会の空が奇麗になり、東京でも流れ星が観えるようになり

その後一斉に明かりを消して星を見る運動は流行ったことを思い出し

コロナ禍での自粛生活の頃、都会の空が奇麗になって

星がよく見えるという話を思い出しました。

 

そしてもう一つ、オイルショックが落ち着き、経済が回りだし

人が動き出した頃、今回と同じような迷走台風が日本列島を襲い

西日本から北海道まで豪雨により

多くの河川が氾濫したことも思い出しました。

 

昨今の地球の至る所での豪雨のニュースを聞くと

世界中の人間がコロナ自粛から一斉に動き出して

熱量が発散されるからではと、そんな気になったりします。

 

我家のオイルショックは、港で働く兄からの

船が動き出したからもう大丈夫

という電話で終焉を迎えました。