団塊の世代と言われる約800万の中の一人の男が夢を見てその夢を叶えた話(jazzとoldes) | ミナミのブログ

ミナミのブログ

のんびり、、まったり

夫の青春時代、日本には本国から進駐軍へのラジオから伝わる

アメリカンポップスやジャズが街にあふれていました。

 

ジャズという音楽が日本に入ったのは

今の神奈川新聞、当時の横濱貿易新報によると

1925年昭和14年に

アメリカに興業に行った松旭斎天勝一座がアメリカの楽団を従えて帰国し

喜楽座という芝居小屋で帰朝公演をしたのが始まりだそうです。

 

この芝居小屋は後のオデオン座の斜め前辺りに有ったとか

オデオン座は進駐軍によりオクタゴンシアターとなり、その後横浜松竹映画劇場になり

再び横浜オデオン座になり、今はドン・キホーテになっているのではなかろうかと。

 

当のアメリカでジャズが生まれたのは、ニューオリンズで働くアフリカからやってきた人々の

アフリカの魂を慰める音楽が始まりだったそうで

その後、禁酒法の時代に、当時のマフィアがバーで女性を口説くのに必要として用いたという

話も読んだことが有ります。

 

横浜でジャズといえば一番に思い出されるのが野毛にあるちぐさという喫茶店です。

初代の方が昭和8年にジャズを聴くために作ったお店だったとか。

残念ながら行ったことは有りませんでしたが、横浜には似たようなお店がたくさん有りました。

 

私が高校時代にはジュークボックスとコーラの自販機はどこの喫茶店にもあったような気がします。

番号を入力すると、レコードが上がって来て、音楽がかかる。

 

夫もそんな情景が好きだったようで、よく伊勢佐木町のお店に出かけていました。

ある時レコードを1枚持って帰ったので、何だろうと思って掛けたら、夫が歌うイエスタディでした。

お店で吹き込んでもらったとか。

残念ながらレコードは息子の格好の玩具と化して今は存在しませんが、なかなかに美声だったと思います。

 

当時5歳の息子はその後夫が唯一婿入り道具として持ってきたオーデオ器具を見事に分解し

子どもにとって危険だと思うと言った夫が我が家でレコードを聴くことは無くなりました。

 

思えば夫と一緒に出掛けたのは、関内に有ったカウベルというライブハウスが始まりで

このお店の、ラララカウベル、歌うカウベル、みんなカウベル、という歌を随分と後迄歌っていたものです。

夫が認知症になってからも、jazz promenadeや

みなとみらいで催されるライブなどに連れていくと、ずっと聞き入っていました。

 

jazzがアフリカの人々が魂を慰めるために演奏したのが始まりだというように

音楽には人の心を慰める力があるのかもしれません。

 

因みにジャズには即興歌というものも必要だとかで

鶴瓶さんがKingandPrinceの平野という子が即興で歌詞を変えたことに感心しているのを見たことが有ります。

 

今年の10月には夫とはjazz promenadeに行けないのが残念だけれど

音楽が街にあふれる時代に青春時代を送った夫はいい時代を生きたなとしみじみ思います。

 

そんな夫がドライブで娘に聞かせたのは、泉谷しげるの黒いかばんと少年A、そして春夏秋冬。

 

家ではサッチモのバラ色の人生を聴かせていたので

幼稚園で彼女が口ずさむ歌はラヴィアンローズと少年Aというカオスの世界で。

先生からもう少し子どもらしい歌を聞かせてくださいと言われたのも今は昔の話です。