30分もなかった | ミナミのブログ

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のんびり、、まったり

娘が東日本大震災直後からのライフワークにしている、陸前高田へのボランティアに

初めて同行しました。

 

今年、4年ぶりに動く七夕を行うとのことで、祭りに参加して欲しいと言われたとか

一関に車で迎えに来てくれるということなので

途中宮城県を経由して、、

夫の病気で葬儀に行けなかった義兄の娘さんとお会いして

願わくばお線香を上げさせてもらえばと思って、約束していたのが

家の方がコロナに罹られたとのことで、頓挫して、とりあえず七夕と

ホテルの近くの朝市の場で行われるという地元の方たちの雀踊りをみて

翌日一関に向かいました。

 

2時間ほど時間が有ったので、タクシーで一度行ってみたかった厳美渓に行き

空飛ぶ郭公団子を味わってきたのですが

そのタクシーの運転手さんがこれから私達の行く部落出身の方だとのこと

 

あの日、30分もなかったですね。

その一言に、当時のいろいろな様子を全て言い表しているような気がしました。

 

お祭りには地元に帰らないと言われたので、代わりに観てきますねと伝えました。

 

嘗て私の家には、軽トラックで魚を売りに来る男性がいましたが

彼の二の腕には大きな傷跡が有り、魚を買いに行く人たちの中には

彼の腕に有った刺青を隠す為にワザとやけどをしたのだろうという人がいました。

 

彼は

中学生の時、1960年のチリ沖地震による津波で家族全員を失くした。

祖母の手を握って、沈んだ時、誰かが自分を引き上げてくれた。

祖母の姿が見えず、再び海水に戻ってと思ったその時

力強い手で引き上げてくれたその人が、助かったんだから生きろ

そう言ったんだよね。

腕の傷はその時出来たけれど、見知らぬ人に話しても同情されるだけだから

刺青のままでいい、そう話していました。

 

一関のタクシーの運転手さんが以前勤めていたという、陸前高田のタクシーの運転手さんが

2万人しかいないんですよね、といわれたので

横浜も(南区や中区は)元が埋め立て地で元々の地元民などいない

これから始まりですねというと、そうですねと答えていました。

 

何もしなければ何も始まらないのは、被災地だけでは無いように思います。

 

広田湾の両替漁港で、イベントの一環の牡蠣船を見送り、タクシーを待っていると

牡蠣の殻の山に、数羽の揚羽蝶が舞っているのを見つけました。

 

娘は、実際に被災した人の気持ちは、経験しない人には絶対に分からないことなんだと

理解したそうです。

 

たった、30分。どれだけ寄り添ったところで、経験しない人間には到底理解出来ない。

可哀想だとか、気の毒だというより、行って遊んでお金を使うほうがずっと力になる、と。

 

ホテルから望む陸前高田の街

 

動く七夕

 

陸前高田のキャピタル1000に泊まると

手書きのWelcome memoと折り鶴かおかれていました。

娘は、この鶴がいつか千羽鶴になると良いなと話しています。

 

それにしても陸前高田迄の道のりは遠すぎます。

JRのBRT、もう少しどうにかならないものでしょうか。