夫たち団塊の世代が中学生になると
都会ではひと学級60人が12クラスある学校も珍しくなく
それでも間に合わず午前と午後に授業を分ける学校もあり。
ひとクラスに60人入れば後ろのほうなど何をしていても気が付かれることもなく
修学旅行に至っては布団部屋にまで寝かされたという
何もかも雑に扱われる確かに塊のような年代で。
戦争の影響で教師が不足しているということで
地方の小中学では敗戦翌年1946年に廃止した代用教員の代わりに
町内の名士が助教諭という資格で教師を務めたそうで
夫の家の近くの寺の住職もその職に就き、夫の小中学の担任になります。
寺のお坊さんは勉強より生物への憐れみを教える方が大切だったのか、
小、中学校に通う夫にお寺の境内の片隅で飼われているカナリヤの食事係を命じ
小学生の時は給食が終わると、中学になると四時間目終わりに学校から寺に行き![]()
寺の縁側で昼飯をごちそうになって学校に戻ったとか。
都会で有ろうと農村であろうと、食べ物に困窮していた時代に
お寺の奥さんは夫のために毎日美味しいお昼をご馳走してくれたそうです。
当時、横浜本牧の地で生まれてその地で暮らした団塊世代の従兄の話では
中学生の頃の弁当の中身は半分麦の飯の真ん中に梅干しが埋められた日の丸弁当で
佃煮と卵焼きと沢庵が添えられ、たまにイワシの目刺しが付くという
今の時代からは想像も出来ない質素なものだったそうです。
それさえも出来なくて蒸かしたサツマイモを新聞に包んで持ってきた子もいたとか。
中学生の夫
